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前日、翌日はいつもより5℃低くなるとニュースで観て、寒がりの身としては心配していた。
少し肌寒さは頬に感じるものの、ニュースでアナウンサーが騒ぐ程、まだそれほど寒いこともなかった。起き抜けにくぐらせた白パーカー姿でベランダに立ち、ホッと一息つく。
どこからともなく、弦楽器を奏でる優美な音色が聴こえてくる。向かいのアパートに住んでる名前の知らない誰かが、きっとまたいつものように弾いているのだろう。
それは大体、お互いの仕事が休みの日で、晴れの日の朝8時15分を過ぎてから行われる。
その時間なのは、お互い同じ短編ドラマ番組を見終わってベランダに出てくる時間が、大体その時間だからだ。
小さな、なんてことない朝のやり取り。
「……あ、いた。おはよう、ミサ。今日はこれやる。違法植物の種じゃないからな」
ひょっこりと顔を覗かせた彼――人間のロイはそう言ってニヤリと笑い、ベランダの薄いパーテーション越しに、手渡しで何かの種を差し出してきた。
短くて硬そうな髪は所々寝癖ではねている。枕に頭を擦り付けて眠っていたせいかもしれない。
二重で垂れ目の人懐っこそうな瞳は、今日も目の覚めるような綺麗なブルーだ。
吸い込まれてしまいそうになる。
「ねぇ。これは何の種?」
「内緒。野菜の種か、それとも花の種か……どんな土でも育つものだから今回は教えないでおくよ。何が育つか楽しみにしてな」
人間の大人の男の人の手。大きい方。指の先は丸くて、ちょっと乾燥してカサついている。爪はいつも切り揃えられていて短い。
差し出した右掌の肉球の上に、摘み持つ親指と人差し指から、パラパラと小さくてまぁるい種が音もなく落ちてくる。
猫耳の半獣人のわたしは、貰う際にほんの少しだけ触れた彼の指の感触が擽ったくて、秘かに尻尾の先をピンと張りつつ受け取った。
「あぁっ。4粒も下に落ちちゃったじゃない」
「別にいいじゃん、4粒くらい」
引っ込めた右掌をそうっと握りしめつつ、勿体ないと口を尖らせながら、わたしは下を覗き込む。
ロイはそんな私を見て苦笑しつつ、ベランダのテーブルに置いていたと見られるマグカップを手に取り、太く筋張った腕を乗せ、手すりにもたれる。
猫のイラストが描かれた白いマグカップ。そこから立ち上る湯気が、朝の光と溶け合う。ロイヤルミルクティーの甘くて優くて、ほんの少しだけクセのある匂いが、ふわんと鼻を掠める。
「ロイが袋に入れて渡してくれないからだよ」
「やだ。渡すの装ってミサの肉球堂々と触れなくなるだろ?」
「あれのどこが堂々? …………いや、ていうか渡す動機が不純過ぎて嫌」
「えー、ぷにぷにの肉球に触れるか触れないかくらいのギリギリのところで触れるのは、人類のロマンなのであります。肉球の柔らかさは人類の心を救う。このように小生は思う訳なのでありまして」
「全く意味分かんない。とりあえず、おまわりさん呼ぼっかな。ロイがセクハラしてきますって」
「冗談です。ごめんなさい。ミサ様、それだけはどうかご勘弁下さい」
ロイは軍隊で働いていたけれど、退役して今は小学校の先生らしい。背が高く、骨格も見るからに太いけれど、のほほんとした雰囲気と銀縁の丸メガネを学校でかけているせいか、子供達にはよくからかわれているのだそう。
ロイをからかいたくなる子供達の気持ち、ちょっと分かる気がする。元軍人さんなのに全然怖くないんだもの。
だって、こんなに優しく笑う人見たことない。
「ところでさ、この種って何の種なの?」
「だから内緒。お楽しみは最後までとっておけって言うだろ?」
喋っている自分達でさえ記憶に残らないような、そんなとりとめのないやり取りを交わした後、わたしは自分のベランダの鉢の土の上に、ロイから貰った数粒の種を蒔いた。
種は、結局何の種だか分からないまま。
これは野菜の種。深めのコンテナか土の袋に穴空けて育てて。これは花の種。苗用ポットにいくつか分けて育てて。
そう言って教えてくれることもあれば、今回みたく教えてくれないこともある。
これまで花だったから今回も花かなと、蒔いたばかりの土の上に、銀色のジョウロで静かに水を注ぐ。
隣から、ロイが掃除機をかける音が聞こえてくる。10時から友人と約束があって出かけると言っていた。
太陽に向かって、両腕をグイッと伸ばす。
ロイから貰った種で育った野菜や花達で埋め尽くされたベランダの空間は心地良い。
1人で住んでいても、寂しくない。
「……さて、と。あたしも掃除しよっと」
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