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「田中ァ、ちょっと来い!」
フロアじゅうに響き渡る声で部長が呼んだのは、紛れもなくわたしの名前だった。
周囲の目が一斉にこちらに向いた気がして、身が竦む。
「おい、何やってんだ、早く来い!」
背中に浴びせられた怒鳴り声に心が軋むのを感じながら、わたしは作業中のファイルを急いで保存し、席を立った。
部長は人差し指をしきりに机に打ち付けて、今か今かとわたしを待っていた。椅子の上で足を組み、背もたれに寄り掛かっている姿は、誰が見ても横柄だ。だがその態度を注意できる人は、ここにはひとりもいない。
部長は一分一秒が惜しいというように、まだわたしが立ち止まらないうちから、周囲に聞こえるような大声で話し始めた。
「田中ァ、お前ここからここまでの計算式が全部間違ってんのに、何で気付かないんだよ!」
部長の机には、わたしが今朝提出した資料が置かれていた。過去十年分の資材単価の推移をリスト化した資料で、分量は百ページ近くある。完成させるのに丸三日かかった。
資料の束から抜き出した数枚をわたしに見せつけながら、部長は声を張り上げた。
「どっからどう見てもこの単価じゃおかしいって思うだろ、普通。お前の目は節穴か? お前がミスばっかりするから、こっちの仕事が増えるんだよ、ったく」
溜息を吐いてわたしを見上げる部長。その顔には、わたしへの配慮など一切ない。代わりに、「無能な部下を持って可哀想な俺」という自己憐憫が、隠す気もなく漂っている。
「前の田中は使える奴だったんだけどな。同じ田中でも雲泥の差だ。あーあ、田中がまた戻って来てくれたら楽なんだけどなァ。あ、もちろん前の方のな」
前任の田中さんは、わたしより一回り以上年上の仕事のできる女性だった。今年の五月、臨月のお腹を抱えて退職していった田中さんの代わりに採用されたわたしは、たった数日の引き継ぎで、彼女がやっていた仕事のすべてを背負わされることになった。
それから三か月、部長は事あるごとに田中さんを引き合いに出しては、わたしの仕事の遅さをあげつらった。たまたま苗字が同じというだけで、部長はわたしを田中さんの出来損なった生まれ変わりだと思っている。
そんなに田中さんにいて欲しかったのなら、形骸化している産休制度を整備してあげれば良かったのに。先輩たちは眉を顰めて囁き合っていたが、部長にそう進言する人はいない。みんな余計なことをして自分に火の粉が飛ぶのは避けたいのだ。
「今日中に全部やり直して持って来い。いいか、今日中にな」
朝提出したはずなのに、どうして定時一時間前に指摘してくるのだろう。どう考えても嫌がらせだし、どう考えても残業確定だ。
「……はい。すみませんでした」
わたしは押し付けられた資料の束を抱え、奥歯を噛みしめて自席に戻った。
苛立っていることを気取られないよう、なるべくそっと机に資料を置く。コピー用紙百枚分。印刷するだけでも一苦労だった。本当ならメールへの添付で済ませたかったのに、部長に回す資料は何故かすべて印刷しなければならないという暗黙のルールがあるのだ。
もうゴミにしかならないそれらを見つめる。社外秘。シュレッダーにかけなければ。そう思いながらも身体が動かない。
固まったまま動かないわたしを見かねたのか、隣の席の先輩が「田中さん、大丈夫?」と声を掛けて来た。やおらそちらに顔を向ける。先輩はきっと素直に心配してくれているのだろうけど、心が捻くれたわたしはその「後輩を心配する先輩面」にさえ嫌気がさした。
本当にわたしのことを思っているなら、部長に注意の一つぐらいしてくれたっていいはずだ。そうしないのは結局誰しも我が身が一番可愛いからで、それはわたしだって同じことだった。
「大丈夫です、ありがとうございます」
自分の口から出たらしきその声が、まるで自分のものじゃないかのように遠くに聞こえる。また一つ、心を蝕むヒビが増えた音がした。
定時を過ぎると部長はさっさと帰っていった。
わたしの資料の修正が間に合っていないことはどうでもいいのだろう。要は初めから、できるはずもない条件を突き付けて、人が慌てふためくのを見るのが楽しいだけなのだ。怒られるならきっと明日の朝。執行猶予は十二時間。
他の人たちも、ひとり、またひとりと退勤し、二十時を回る頃にはわたしだけが取り残された。煌々と光るパソコンの画面に目を細める。頭が痛いのはブルーライトのせいか、画面にびっしりと並ぶ数字のせいか。
瞬きをしながら天井を見上げた。頭上の蛍光灯が切れかけて点滅していることに、今更気付く。
天井は高く、脚立を持ってきてもわたしでは届かなさそうだ。そもそも新しい蛍光灯がどこにあるのか、入社三か月のわたしは知らない。
きっと明日になれば、誰かが新しい蛍光灯に変えるのだろう。わたしの頭の上で最後の光を灯している蛍光灯と、まったく同じようで別物の蛍光灯が、何食わぬ顔をして明日のわたしを見下ろすのだ。
「……ごめんね」
思わず零れ落ちたのは謝罪の言葉だった。
目の前で蛍光灯から発信されるSOSに、わたしがしてあげられることは何もない。そのことに無力さを感じる自分がいた。せめて残り僅かな力を振り絞って懸命に光っていたことを、わたしだけは覚えておいてあげたいと、そう思った。
視線を戻して、パソコンの画面を見る。
修正箇所はまだあと半分もあった。今日中に終わらせなきゃいけない他の案件もある。時間は有限だ。蛍光灯なんかに思いを馳せている場合ではない。
時計は無情にも同じリズムで時間を刻む。わたしに配慮して時々時間を止めてくれるなんてことはない。
誰もいないのをいいことに、口から盛大な溜息を漏らしながら背もたれに背中を預けた。その動作とギシッと鳴った音に、瞬間、部長の姿が蘇り、爆発的に怒りが湧いた。
机の端に避けていたもう不要になった紙を、無造作に両手で掴む。
「クソクソクソクソ!」
怒りに任せて丸めたそれらを、わたしは床に叩き付けた。繰り返し、繰り返し、叩き付けた。そうしているうちに我に返って、今度はその紙クズを拾いあげた。
何度手の側面で撫でつけても、一度ぐしゃぐしゃになった紙は、二度と同じ状態には戻らなかった。あんなに綺麗だったのに、今は見る影もない皺だらけの紙。それはあまりにもわたしの心のようで、そう自覚した途端、涙が込み上げた。
「ああ、もう……」
わたしの顔面も、紙のようにぐしゃぐしゃになる。
入ってまだ、たったの三か月。何十社と面接で落とされて、ようやく掴んだ仕事だ。簡単に辞めるわけにはいかないのに。
「……やめたい」
今すぐここから逃げ出したかった。部長の顔なんて二度と見たくない。この椅子にも二度と座りたくない。だが、生きていくためにはどうしたってお金がいる。お金がなければ、屋根のあるところで安心して眠ることさえできなくなるのだ。
だから、やるしかない。やらなければ。
溜息を吐いて、手の甲で顔を拭う。誰もいないのだから気にする必要もないのに、化粧が落ちたなとぼんやり思って、意味もなく笑った。
ようやく資料が完成した頃には、向かいのビルの明りもほとんど消えていた。
データをコピー機に送る。ちょうどコピー用紙が切れていたので、新しい包みを破って用紙をセットする。
ガコンガコンと、誰もいない事務所にやたらと大きな音を響かせるコピー機の前に佇みながら、今しがた破った包装用紙に視線を向けた。
茶色い包装紙の側面に書かれている言葉を、無意識に口の中で呟く。
「……この用紙は再生紙を使用しています」
一際大きな音を立てて、コピー機が停止した。紙詰まりを起こしていた。
機械の中で無惨に潰された用紙を取り出し、スタートボタンを押す。コピー機は再び、何事もなかったかのようにインクをつけた紙を吐き出していく。
詰まって使い物にならなくなった紙を、ゴミ箱へ捨てた。
一度折り目がついた紙は元には戻らないけれど、それを溶かして混ぜて、また紙にすることはできる。そうして再生した紙に、また、誰かがインクをつけ、皺をつける。それをまた、溶かして混ぜて――
蛍光灯といい、コピー用紙といい、さっきからわたしは、何を延々と考えているのだろう。
本当にわたしが考えていること。考えたいこと。
それは、壊れたものは、二度と元には戻らない。
であれば、もう、壊れかけの、わたしの心は――
いつの間にか、印刷は終わっていた。
もう吐き出すものがなくなったコピー機は、わたしを置いてさっさと眠りに落ちた。
会社を出ると、むわっとした熱風が吹きつけて来た。
真夏の深夜、最近ではこの時間でも三十度を下回らないことがある。静まり返った街中に似つかわしくない暑さに、このまま永遠に夏が終わらないんじゃないかという錯覚に陥る。
駅まで十五分。鞄からウォークマンを取り出し、イヤホンを耳にさす。
ボタンを押すと、シャッフルで再生されたのは、戻りたいあの頃によく聞いていた曲。懐かしさに胸が締め付けられた。人気のない大通りを、ミュージックビデオの主人公の気持ちになって歩く。何だか涙が出て来て、夜空を見上げる。星なんて一つも見えなかった。
改札口は煌々と光を放っていて、わたしはまるで誘蛾灯に惹かれる蛾のように改札を抜けた。階段をのぼった先、ホームには誰もいない。三つ並んだベンチの真ん中を堂々と陣取った。
汗を拭いながら、ホームとホームの間にある虚無を眺める。
暫くしてから、ゆるりと左腕の内側へ視線をやった。べったりと貼られた絆創膏をゆっくりと捲る。ぴりりと痛みが走りながらも捲れた絆創膏の下、一直線に引かれた線は、既に瘡蓋になっていた。
数日前、風呂場で誤って剃刀で切った傷。まるでリストカットみたいだなんて笑っていられたのも束の間、なかなか止まらない血に、最終的に素っ裸で風呂場を飛び出した。
瘡蓋の下には、新しい皮膚ができている。皮膚は再生するのだという当たり前のことが、何だかとても新しい発見のように思えた。
わたしの身体は強い。どれだけ傷つこうが、細胞が入れ替わろうが、死ぬまで生きるのだから。強いのだ、わたしの身体は。
それに比べて、心はどうだ。ぐしゃぐしゃに丸められた紙のような心は。
電光掲示板が列車の到着を告げる。
黄色い点字ブロックの内側にお下がりください。
人工的なアナウンスが、深夜、たったひとりしかいないわたしの安全を憂いてくれる。
ベンチから立ち上がり、黄色い線の外側に立つ。
暗闇の奥から、光る目玉が近づいてくる。
真夏の深夜、蝉も寝静まっている。
終電。本日最終運行。
明日なんて来なければいい。
一歩前へ踏み出す。
列車が近づく。
爪先が、宙に浮く。
轟音に紛れて、あの頃何度も口ずさんだ歌詞の一節が、やけにはっきりと耳に届いた。
そちらに意識を引っ張られた瞬間、目と鼻の先を列車が滑り込んで来た。
風圧でよろけ、一歩後退する。
「――――」
列車は時間を掛けて停止した。
開いた扉から、眩い光が降り注ぐ。涼しい風が、安らぎを与えるようにわたしに手を差し伸べてくる。
その手をすぐには取れず、わたしはその場に佇んだ。
壊れかけのわたしの心は、再び正常に機能するようになるのだろうか。
何本も入ったヒビの間を何か別のもので埋めて、辛うじて形だけ保った心を、わたしは以前と同じように愛せるのだろうか――
その答えは多分、永遠に出せない。
でも、答えを出せないまま生きた道のりが、きっと答えなのだとしたら。
わたしはヒビだらけの心を抱えて、暗いホームから明るい車内へと渡った。
背後で扉が閉まる音に、絶望と安堵が入り混じる。
そんなわたしの心など露も知らず、列車はゆっくりと明日へ向かって走り出した。
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