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いや、冗談きついって。アタシの写真で美しくないのが現存するの? アタシのこの加工テクニックが撃ち漏らしをしたとでも? あったらマジ教えてほしいんだけど。ねえ。礼にはおよばないからさ。でもふつう選ぶよね? マイセレクションしか残さないよね、だれもが三、四回見返す写真しか。
まあ、少し端折るけど色々いきさつがあって、クソ元彼の画像はいわずもがな、少しでも涙袋とか上唇のツヤや反り加減、前髪の透け感あと肌の透明感が気に食わない写真は悉皆記憶の闇に葬って初めからなかったものとしたいのよ。だって嫌でしょ? 赤点のテストなんてだれがファイリングすんのさ。
そりゃあ、まあ、あれよ、幼少の砌には馬鹿正直に七点のプリント、オカンに見せてたけどさ。ママー、ラッキーセブーン、ってね。ママー、ラッキーセブーンにメリットを感じなくなってからは自己管理よ、自己管理。成績なんてものは。え? 情報操作? あー? あーあーあー、ごめん何いってんのか聞こえんわ。
しかしながらも、学年のなかでは勉強はそこそこできていた方だし、夏休みの課題も礼拝堂でさっさと終わらせた部類だし。隠す必要がないからいうけど、クリスチャンホームなんだ、うち。両親がキリスト教徒。ご飯のときに手とか組んだりしてアーメンっていうやつ。ラーメンでもそうめんでもアーメン。
放課後は教会の中庭で遊んで、花火や水鉄砲はその駐車場。ああ、駐車場で雪だるま作ったり雪合戦もしたりしたなあ。懐かしい。あんなに積もったのはこれまで一度しかなかったけど、最高にキレてる除雪方法だったな。で、結婚式を挙げるのが礼拝堂なら葬儀葬祭を執り行うのだって礼拝堂。
「シューキョー」にどっぷり浸かった子ども時代だったのよ。
でもな、宗教も悪くはないぞ、キミ。ま、一概にああ! 素晴らしい! ともいえないけどな。世の中広いからさ、アタシから見てもヤバい教派も存在するし、この国の土壌だと少数派であればとりあえず白い目で見るし。だって日本で何といいますか、マトモなクリスチャンやってるひとなんて人口の〇・八%だよ? 信じられないかもしれないけど、その〇・八%の真っ当な、つまり異端の方々とは違って昔気質でクソ真面目な教派は戸別訪問やポスティングはやんないんだよ、一切。あなたが信じようとどうしようとアタシにはどうでもいいことだけどさ。
その流れもあったな。アタシはふつうに家にいるときと同じく給食のときにお祈りするじゃん。そんなアタシのことをからかうどころか、掃除のときバケツの水あびせるやつとかわんさかいたよ、ガッコってとこは。でもさあ、分かるでしょ? 世界中のバカどもをアタシひとりで相手するには分が悪い。即刻逃げたさ。保健室登校ってやつ。
だいたい、十字軍遠征にしても三〇〇万人死んでようやく自分らのバカらしさに気づいたわけじゃん? 宗教戦争とかさ、護るべきものを護りたいとかってのは分かるけど、いくら何でも三〇〇万は多くはないか?
アタシは宣教や志よりも自身の安全を優先したんだ。どうせあいつら、死んだあとはオサラバだしさ。
ん? 死後の世界を信じているのかって? そうねえ、知らねえな。死んだことねえんだもん。生者である以上、死後の世界を語れないんだよなあ。あ、でもアレだ。可能性を安易に捨ててはならんな——キミ、試しにちょっと死んでみる?
——ごめんごめん、冗談冗談。半分冗談。アタシも死んだあとのことは分かんないよ。今でこそキリストを信じていても、分かんないもんは分かんないよ。分かんないものに期待する、望みを託す、なんてこと、競馬場が近所にあったし別に不思議でも何でもなかったよ。
無神論者が大勢を占めるこの日本でシューキョーを信じるにはちょっと荷が重かったな、アタシの少女期は。泣いて帰る日もあれば、制服も体操服もグチャグチャにされて教員の車で帰る日もあった。
殉教? アハハ、なにアホなこといってんの。圧倒的な数の論理に負けただけだよ。小学生が新旧約聖書の「約」は天の道を約束する意味の「約」である、ってことを説いてまわれる? 机に彫刻刀で『死ね』って彫られてても?
まあでも——アタシは行きたいと思うよ、天国。いつでもいいから、行きたい。今でも——うん、行く用意はしてある。
だいぶ前の話になるけど、そうしたクリスチャン同士で他県の子と連絡取り合ってた時期もあったんだ。その子は——神様に呼ばれて召天されたけどね。ひとは必要あって生まれ、必要あって死ぬ。手放しで喜べる采配でもないし、抗う心も理解できる。あの子とまた夜通しでボイスチャットしたいな、と思った。けど、できなかった。
それにしても向こうは面白いだろうね、うちのじーちゃん、神道だったから祝詞を上げて、真言宗のばーちゃんはばーちゃんで題目を唱え、オカンとオトンは使徒信条を唱和してさ。
そうやって、でもみんな争いもいさかいもなく笑って過ごせるんだ、天国って。おもろくね? ザ・救い、って感じしない?
ちょっと話が飛ぶけど、『葉隠』ってのがあるじゃん。
「武士道とは死ぬことと見つけたり」っていう、サムライの。
あれって西洋思想と比較して人命軽視っていわれがちだけど、違うんだよ。
いつ死んでも後悔しないように、精一杯生きなさいよ、っていう意味らしいんだ。すぐにでも極楽浄土へ旅立てるよう、清く正しく全力で生きよと。天国に行くことのできる、行くに値するひととなれ。どんなに厳しい暮らしでも志は高く、雄々しくあれ。
でも、世の中にはなんの徳も成せられず、なんの功も立てられずに亡くなるひともいる。スラム街の劣悪な環境下に生まれて、生まれたその日に一ドルも使わずに亡くなってしまう子たちとか。あるいは先進国に産まれたのはいいけど、母親が自分の親にバレるのが怖くて、出産直後に扼殺される子たちとか。
その子たちはどうすりゃいいのさ。
バチカンの偉い人とか、王室の貴婦人とか、年間の寄付金支出額をステータスとする資産家連中とか、彼らも彼らなりに祈ったり、訪問したり、拠出したりしている。でもスラムのその子らは、世界経済になんの役にも立てないで死んでいくんでしょ?
もしそうだとすると『葉隠』の指南はあまりにも厳しいと思うよ。立派に生きた者、徳を積んだ者にのみ与えられる特権的な場所が天国なら、なによりも憐れむべきその子らをどうして軽視できるのさ。天国は空港のラウンジじゃねえんだぞ。
ちょっといい例がある。アタシが女子高生だったころに遡ろうか。何、そんな大仰なタイムスリップでもない。
そのときアタシは生まれて初めて恋をした。そして相手の子とも気持ちが通じた。今ではのろ気じゃなく愚痴を延々垂れる機械にわたしはなり下がるのでちょっと端折っていうと、死産だった。
死産だったんだ。わたしの第一子は。
十月十日かけて育み、人類にとり最悪というべき激痛を伴って生み出すべきだった新しい命をわたしは、殺した。
あの元彼——これまた詳細は省くけど驚くほどの外道だった——と別れ、わたしは自暴自棄になっていた。で、そこら辺の常備薬とか、オトンのタバコの葉っぱとか、よく覚えてないんだけどね、オーバードーズ、したんだ。自傷半分腹いせ半分。
二、三日は意識が朦朧としていた。次第に見当識がはっきりしてくると、ここが天国ではないことはすぐに分かった。「あ、失敗したんだな」ということは嫌でも理解できたよ。だって両手両足、縛られてたんだもの。
自分で歩けるほどに回復したら臙脂色の服着た、ガキみたいな背の低い女医に説明を受けたんだけどね、よく覚えてるよ。
当時わたしは妊娠五週目だったらしい。胎盤や羊水で体重が増えていたので薬物の血中濃度も下がり、なおかつ各器官の未発達な胎児は、分解しきれなかった毒素をその小さな小さな肝臓にため込んだ。ゆえに母体への毒性が下がった、と。
「とても残念です」
と、その女医は頭を下げた。
残念、か。
残念もなにも、わたしの耳にはなにも届かなかった。
せめて、胎児の声が聞こえていれば。
せめて、妊娠の事実を知ることが叶っていれば。
せめて、赤ちゃんだけでも救命できていれば。
——わたしの子の父親は少ししてから別な女とくっつき、わたしはそれと同時期に退学届を学校に出した。自分が胎児を殺した。自分が殺した。ひとごろしになった。そのショックは当時のわたしには重すぎたんだ。
ごめんね、
ごめん——
ほんとうに
ごめんなさい——。
完全に引きこもりとなり、祈りも希望も欲求も、つまり、今後楽しく生きるための道筋をすべて放擲し、ただただベッドで毛布にくるまり目をつむるだけの存在となった。
——でも、赤ちゃんをちょっと天国に送ったり、その代償にわたしをちょっと地獄に送ったりすることくらい、できるよね? 神様ならさ。だってあんな小っちゃな赤ちゃんをやすやすと死なせたんだもの、それくらいかんたんでしょ?
久しぶりにふらりと訪れた教会では、少数の高齢の者からは婚前交渉の禁を破った廉がどうのこうので不自然に距離を置かれたが、大多数の信徒は自死を図ったわたしへの憐憫の方がまさった。
若いのに、悪い男につかまってかわいそうに——
どうか神様の慰みを——
願わくば、赤ん坊が救われんことを——
うるさい。
うるさいよ?
気に障るんだけど。
——うるさいっていってんの!
だれも、
だれもなにも救えないのに。
だれもなんの力も持っていないのに!
災害でも、人死にでも、祈ることしかできないくせに?
神様でも使徒でもないのに、牧師や伝道師がみことばを取り次ぐ? 祈りが天に届きますように、と祈る?
はっ。
信じられない。
信じられる要素も信じるメリットもなんにもない。
気持ちも落ち着かなければ心も清らかにだってならない。神様はわたしに絶望を、わたしの子どもに死を与えた。
散々な気分での帰り際、副牧師に教職用の祈祷室へ来るよういわれた。——それを断らなかったのは今でも不思議に思う。引き合わせ、というのだろうか。
「でも自分、教えを聞こうっていう気分じゃないんですけどね。ま、お別れの挨拶くらいなら」
「いえいえ、わざわざ来てくれてほんとうにありがとう。どうぞどうぞ、かけて、ね」
そのときの会話はよく覚えている。この歳になってもまだ思い返しては両手を組むことがある、胸のうちに残る言葉だ。
「よくここまでこれたわね。ひとりだけでなんとかしようって頑張ったんでしょ?」
「でも、車とか病院代とか、親ですし」
「ああ、まあ、それもそうね。でも先生がいってるのは、あなたがひとりで神様の仕事も頑張ってやってきたっていうことよ。コーヒーでいい?」
「はい? あ——はい」
「洗礼式の時の五つの質問のうち、最後の一問、覚えてる?」
副牧師はコーヒーをとぽとぽと淹れ、問うた。
「それ、大昔じゃないですか——ええと、あなたはあした、絶対に死にます。しかし義によって絶対に天国に行きます、これを信じますか、だったと思うけど」
向かい合った副牧師は目を細めてコーヒーを飲む。
「日本でいうなら『葉隠』の精神よね」
「はがくれ?」
「『武士道とは死ぬことと見つけたり』。いつ死んでもいいように生きること」
「——ああ」
わたしは心の中で舌打ちをする。こいつも——同類か。
「神様が死なせたり、生かす命にはひとつも、一切の無駄も無意味もない、だから天国に行くのよ」
「でも——それ、教え的にどうなんですかね。それじゃ、なんのための受洗なんだか。第一、いつ死んでもいいように生きなさいっていわれても、わたしの子なんか一体どうなるんだか」
「そうね。小さいころからだけど、あなたは頭の回転がうんと速い子だったわね。これは教会での説教じゃなく、ひとりのおばさんの世迷言として聞いてほしんだけど——」
——たしかに拡大解釈かもしれない。けれど、神様は被造物すべてを愛している。愛をもって造った。造りたいから造られた。なぜなら、欲しかったから。
また、「信ずる者は救われる」との文言は聖書に一か所もないように、神様は愛の象徴、愛そのものでしかない。だからだれをも愛す。だから、だれにも哀しい死に方はさせない。これを気の持ちようとか、無理やりな執念ととらえるか、もしくはどこかで「そんな気がする」と神様を感じられるか、あるいは感じようと努め、試みるか。苦境に、逆境に立ち、救いはないと諦める決断をわたしたちの領分で行なうか——。
「——それが、信じるということよ。頑張ってだれかの幸せを願うということが。召された者、遺された者、そのどちらも幸いであることを、頑張って信じることが。信じることにしたって、本当は導かれて繋ぎ合わさるものよ。ひどい目に遭うと信じられなくなるし、神様を疑いもする」
すこしの間、わたしは沈黙した。
『かわいそうな赤ちゃん。後悔ばかりの恋。ひどい男。無力な宗教』
それら悲劇的側面は、わたしがそう思って、わたしが自身で宛がったレッテルなのかもしれない。わたしが赤ちゃんを、より不幸にして、より悲観的にとらえているとしたら。でも、仕方が——仕方がないじゃないか、赤ちゃんはわたしのせいで死んだんだ。神様がどうのこうのでもなく、むしろわたしの子は神様に一顧だにされなかった。その子の犠牲で生きているわたしに、要らない命で長らえた、そんな命に価値などあるものか。
『かわいそうな自分。後悔ばかりの自分。ひどい自分。無力な自分』
その嘆きは、自分にはどうにもならないこと、神様が決める——人間には不可侵な領域を嘆いていたのだ。泣いてばかりのわたしは、自らの不幸に耽溺していただけなのかもしれない。さらにいえば、それらの哀しみは赤ちゃんにとってなんの益にも餞にもならない。ああ——わたしは気づく。
『——わたしには泣く権利なんてないと思っていた。怒鳴ることはあっても、泣いてはいけないと思っていた。赤ちゃんが天国へ行くようにと祈ったのは、赤ちゃんにわたしのことを許してもらいたかったから。
許しを得ようと、ひたすらに自分を罰した。自分を許すことなんて、自分でも無理なのに。けど神様に許しを乞えたら、神様が許してくれる可能性を諦めなかったらどうなっていただろう。神様を、人間のわたしの領分で見限らなかったら』
神様にしかできないことをわたしはやろうとして、しかし絶対にできないから、わたしはずっと苦しんでいた。自分で自分を許すことなんて、もう、この先ずっとできないのに。
わたしは今まで、自分や、自分の周りの不幸をたったひとりで抱えていたことを知る。副牧師は続ける。
「自分を許したり、責めたり、諦めたり、理解したり、どうするかなんて、もう決めなくていいの。神様に丸投げしていいのよ。それでも納得がいかないなら、神様のくそったれ、ばかやろう、っていってもいいのよ。ぜーんぶ、神様は受け止めるんだから。だって神業は、人間にはこれっぽっちもできないもの。あなたは今日まで、自分を許していいのかを悩んだ。そして自分を責めるべきだと決めた。でも、本来ならそれは神様の仕事。あなたは神様の代わりに、頑張りすぎたのよ」
わたしはしばらく呼吸を我慢して泣くのをこらえた。でも、やがて何にも抗えないことを知る。
わたしはただ、だれかに文句をいいたかっただけなのかもしれない。
泣くから膝に縋らせて、でもなく、つらいから手を握って、でもなかった。
わたしは死産を自分自身の、わたしひとりの失敗だと思っていた。だれかに助けを求めたり、不平不満をぶちまけたり、弱者として振る舞う権利がないものと思っていた。わたしを許し、その嘆きを受け止めてくれるならだれでもよかったのだ。今まで自分で自分を許すこともできず、嘆きを受け止めてくれる存在も知らなかったのだ。
ぬるくなったコーヒーを飲んだあと、赤ちゃんが天国で安らかに頬笑んでいることをふたりで祈った。
副牧師にもらった飴を舐めながら家路につき、
「神様の——くそったれ」と、心の中で、ごく小さくつぶやいた。
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