届かない声

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届かない声

◆◇◆  教室の中へ入るときは、いつだって緊張する。入った瞬間に白い目で見られることには、いつになっても慣れることはない。見られない日はない。ただ、その視線にのる色が、時折変化することがあるだけだ。  この教室には、俺にその毒々しい色をぶつけてくる奴らがいる。出来るだけそいつらとの接触を避けていたいのだけれど、必須科目が被っているのなら仕方がない。  何度も深呼吸をして、肺に空気をたくさん巡らせる。体にいいものが満ちていくイメージで頭を満たして、どうにか覚悟を決める。 ——よし、行ける。  崖から飛び降りるほどの覚悟を決めて、ドアを開けた。 「あっ、孝哉。おはー」  奥の窓際の席から入り口の俺に向かって、大きな声で呼ばわる大柄な男がいた。その男は、それまでの俺の緊張を台無しにしてしまうほど、温和で柔和な笑顔を浮かべている。  選択授業で席が隣になった後、学食でも何度か相席になったことがあり、そのまま仲良くなった。俺にとって優太は、唯一と言える友人だった。 「はよ。お前、頼むから大声で俺を呼ぶのやめてくれよ。特にこの授業の日は……」 「あー、ごめん! そうだったな。今度から気をつけるから……」  優太は、手を合わせて俺に必死に謝っている。俺はそれを笑いながら許そう、そう思っているところだった。優太の後ろ、ずっと奥の教室の後方にいたはずの男が、見えなくなっている。それに、その周りにいた奴らが、俺の方を見てニヤニヤと笑っていた。  背筋につうっと汗が流れるのがわかった。あの集団の中にいるやつで、俺が最も近づきたくない男が、そこからいなくなっている。危険が迫っていることを、本能が察知して、胸がギュッと苦しくなってきた。 「優太、ごめん、俺帰るわ」  今来たばかりなのに、置いたバッグをそのまま掴んで帰ろうとした。すると、優太がそのバッグを思い切り掴んで引き留めてきた。思わずバランスを崩してしまい、隣の席の人の方へと倒れ込んでしまった。ガタガタと大きな音をたて、バッグからテキストが滑り落ちてしまう。 「よお、真面目なくせに朝っぱらからサボんの? サボるんならさあ……」  その男は、手にとっていた俺のテキストを放り投げると、つかつかと俺の方へと近づいてきた。  目の前まで来ると不的な笑みを浮かべ、いきなり俺を抱え上げた。この男は、腕力も体幹も強い。ヒョイっと持ち上げられて終えば、もう俺にはどうすることも出来ない。 「何すんだよ! 降ろせよ、谷山!」  谷山はニヤリと笑うと、そのまま後方の集団に俺を連れて行こうとした。大して仲も良くない俺が、谷山に攫われるのを見ておかしいと思ったのか、優太がそれを阻んでくれる。 「聖、何してんだよ。孝哉は嫌がってるみたいだぞ」  谷山は優太とは幼馴染で、扱い方をよくわかっているんだと言っていた。二人とも昔バスケットでセンターを務めていたらしいのだけれど、言われて納得できるほどに身長が高くてガタイもいい。  平均身長と平均よりもずっと軽い体重の俺を挟んで、睨み合いをしていた。 「なんだよ、優太。お前には関係ないだろう。俺は孝哉に話があるだけだ」 「俺はお前に話なんてない! そろそろ離れてくれ! じゃないと……」  触られた瞬間から、予感はしていた。谷山なんて、見るだけで恐ろしいのに。 ——苦しい。  息が入ってこなくなった。吸っても、吸ってもどこかが行き止まりになっているようで、その先へと広がっていかない。 押し留められたエネルギーが、その部分に溜まっていく。  俺の体の一部であるはずなのに、その逃げられなくなったエネルギーが俺を殺してしまうのではないかという恐怖が、心の中にじっとりと広がっていく。 「孝哉?」  吸っても吸っても、苦しい。吸えば吸うほど、苦しくなる。 『お前が悪いんだろ!』 ——あの時、俺を痛めつけた手が、今俺に触れているなんて……。  指が丸くなって、動かなくなっていった。体を支える力もなくなり、ぐらりとバランスを崩してそのまま床へと落ちそうになる。  それなのに、目は開いたままで閉じることも出来ない。閉じられない目の奥に、あの日の俺が見えていた。 『やめろよ! そんなの……俺が悪いんじゃないだろ!』  いくら言っても、いくら叫んでも、聞き入れられなかったあの日。叫ぶだけ叫んで、喉が切れた。 ——やっぱり、あの日、あそこから落ちておけば良かった……。  そんな小さくて大きな後悔が、頭の中に蔓延っていく。  その絶望的な状況で、遠ざかる意識の向こうに最後に見えたのは、味噌汁を飲んで感動している隼人さんの笑顔だった。
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