4.父

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4.父

 臨月間近、紀恵は勇之助と共に出産立ち会いの段取りの為に診療所を訪れていた。  とはいえ、さっさと歩く夫に追いつかぬ紀恵は、まだ遥か後ろ、長屋の入り口にさえ到達していなかった。  長屋を通り抜ける時、勇之助は10歳くらいの子供が幼い子らの面倒を見て一緒に遊んでいる姿に目を止めた。  あのような子が、もうすぐ生まれるのか……感慨深く眺めていると、その内の一人、5歳前後の女の子が羽目板に足を取られてドブに落ち、ひざ下を切ってしまった。  大声で泣き喚き、年長の子供も出血に面食らっていると、奥の古びた長屋の一室から、無精髭に塗れた浪人が飛び出してきた。 「おい、どうした、どうしたんだっ、泣いているのはお春だろっ」  あんなに離れていても、自分の娘の泣き声だとわかるのか。  浪人は泣き喚く娘に近寄るなり、年長の子に水を汲むように言って、すぐさま傷口を洗い流した。 「そこな御仁、子供が怪我をしていると言うに、何故突っ立っておられる。奥に診療所があるのをご存知なら、何故運んでくださらぬ」 「え、いや……」  浪人はまだ血が止まらぬ娘を、衣が汚れることも厭わずに抱き上げ、診療所へと駆け込んでいった。  紀恵が息を切らして漸く長屋に辿り着き、夫婦揃って診療所に入ると、先ほどの娘がもう泣き止んで、元気に待合室から飛び出してきた。 「もう、もう良いのか」 「蓮之介先生が縫ってくれたもの。痛かったけど、父上がずっと手を握って下さっていたから大丈夫」 「そうか。強い子だ、良い子だの」  感心して褒める勇之助に気を良くしたか、娘は元気に外に出て行った。 「これは先程は……その、娘のことで気が動転し、貴殿には無礼を申し上げた。この通り、ご寛恕願いたい」  娘の後から出てきた浪人が、いきなりそう頭を下げた。 「この長屋に住む浪人、高瀬仙之助、あれは一人娘のお春にござる」 「あ、某は小普請組・島田勇之助にござる」 「ほう、小普請組のお方か……奥方、間も無くにござるな」  紀恵に目を向けて目を細める仙之助に、紀恵も安堵した顔で頷いた。 「しっかりとした良い娘御にございますね」 「いやいや、妻に先立たれ、男手一つで育てておるからどうしても、お転婆になってしまって……しかし、何にも代えがたい宝にござれば。お子、お大切に為されよ。ここの先生方の言いつけを守っておれば間違いはない。ここいらの子供らは皆、先生方のお陰で無事に育っておるのだ」  夫婦に深々と頭を下げ、仙之助も飛び出して行った。 「月通りにお産となりそうです。ご主人、頼みますよ」 「はい。紫野先生、どうぞよしなに」 「まぁ、初めて私を先生とお呼びになりましたね。でも、私は言うなれば助産師、医師は夫の蓮之介の方ですから」 「夫? 」  ハッと手で口を覆った紫野が、誤魔化すように作り笑顔を見せた。 「あ、兄です」  と取り繕ったものの、鈍い勇之助はともかく、紀恵はもう見抜いているようであった。クスクスと笑っている。 「紀恵様、笑い過ぎです」 「だって……」 「もう……でも、ようございました。ここのところ顔色も良いし、何より、よくお笑いになって……穏やかにお過ごしなのですね」 「ええ。お陰様で、夫が懸命に庇ってくれます」  そうはまだ見えぬがと、じろりと睨む紫野に、夫・勇之助は思わず俯いた。
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