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3.夫
十日ほどたった頃、再び紀恵は診察に訪れた。
夫が良く寄り添っている……と思いきや、勇之助は堂々と前を歩き、紀恵がせっせと大きな風呂敷包みを担いでいた。
たまたま患者を見送りに出てきた紫野が、それを見咎めた。
長屋の者は、次に何が起こるかを察し、亀が頭をすくめるようにそれぞれの部屋に逃げ込んで戸をピシャリと閉めた。
「母は納得せなんだが、私は夫ゆえ、妻を連れてきてやった」
「まぁ、それはそれは大層な」
紫野は笑いながら夫の横を通り過ぎ、紀恵から風呂敷包みを取り上げるなり、夫の胸に叩きつけた。
「あなた、こんなことさせて、道中で産気づいたらどうなさるつもりでしたか」
「いや、だって産み月はまだ……」
「こぉの、大バカ者ぉぉぉぉ!! 」
美貌からは予想だにせぬ大音声に、貧乏長屋の屋根から板切れがパラパラと落ちた。
「荷物を持てば腹圧がかかります。そのまま儚く散ってしまう命もあるのですよ、どうしてそれがお分かりにならぬ」
「男が荷を持つなど、恥だ」
「恥などいくらかいても死にはせぬ!! 子の命は2度と戻りませぬぞ!! 」
「あ……」
へなへなと、勇之助はその場にへたり込んだ。
「紀恵殿もお考えを改めてください。傅くばかりが妻の務めではありませぬ。夫が命に労わりを持たぬなら意見をし、何としてもお子とあなた様ご自身を守ってください。それでも聞かぬなら、離縁しておしまいなさい」
「幾ら何でも、先生っ」
悲鳴を上げる勇之助を見下ろし、紀恵は唇を噛んだ。
「そうですわね……実家には帰れなくとも、子を失う事を思えば、離縁して死ぬ気で働くことなど造作もなき事。そのような簡単な事にも気が付かぬとは……親の教えとは恐ろしいものです」
奴隷のように傅く妻……一体いつから、この世はこんな風になってしまったのだろう。戦に出ることもなく、刀を振り回すこともなくなった男達が、女を無能者のように隷属させて威張りちらす。
かく言う男そのものが、女から生まれていると言うのに。
「診ましょう」
暗澹たる面持ちで、紫野は診療所に紀恵の手を取って誘った。
「聞きたかったなぁ、紫野の大音声」
「もう、からかわないでください……これでも反省しているのです」
苛立ちをぶつけるかのように激しく求めあった後、一つ布団にくるまり、蓮之介の腕の中でその胸に頬を摺り寄せながら紫野が口を尖らせた。
「女性の頭は柔らかくて、子の為ならと、新しいことも恐れずに聞き入れてくださいます。でも男共ときたら……」
「おまえも、一応、男だろ」
「一応って何です、一応って。どう見ても男でしょ」
「いや……」
天女にしか見えねぇが、と思わず口にしそうになるのを堪え、蓮之介は紫野の額に唇を押し付けた。
「男がどうしようもねぇってのは、昔っから変わんねぇよ。長屋の連中は皆、今でこそ夫婦で助け合って一生懸命育ててる。少しずつだが、育ってきちゃいるんじゃねぇのかな、男達も」
「ここの人達は、みんな良い人達です……だから、おかみさんを病で失っても、男手一つで立派に育ててらっしゃる」
蓮之介と紫野がもたらした出産への新しい考え方、治療は、新生児の生存率を高め、産婦の死亡率も下げた。
この辺りは元気な子供達の歓声が溢れ、子供を叱る逞しい妻達の怒声が響く。亭主達は仕事から帰ると子供を抱き上げ、妻の待つ家に入っていくのだ。
これはまだほんの、始めの一歩に過ぎない。
「亭主育てんのは一番大変だ。ま、紫野は亭主育てる名手だがな」
「あら、育ちまして? 」
「育ったねぇ。皿は下げるし下着は洗うし、昼間は働いて、夜は……愛しい奥方に心を込めたご奉仕ときたもんだ」
蓮之介が、期待に目の端を朱に染める紫野に覆いかぶさった。
「んもう……ばか……」
その愛しい夫の背に両手を回し、紫野は蓮之介を迎え入れたのであった。
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