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1.夫夫
浅草は、伝法院裏の蛇骨長屋。
この長屋の奥、独身世帯が多い四畳半一間の棟割長屋に囲まれた一角に、小体な診療所があった。
表通りにも面した、コの字型の一軒家だが、長屋の者はいつも、閂をかけずにいるこの裏長屋に面した勝手口から構わず出入りをするのであった。
ここを切り盛りしているのは、まだ若い医師・原口蓮之介と弟の紫野。
爽やかな長身の2枚目の兄と、上背がなくば女と見紛う美しさの弟……その実態は、愛し合う夫夫であり、長屋の者は皆そのことを知っている。
「先生、先生!! 朝早く済まん、先生っ」
初夏の陽気で、長屋のドブも少し臭い始めている。
早朝、いつも家賃をまけてもらう代わりに溝掃除を請け負う長屋の住人で浪人・高瀬仙之助が、娘の春を抱き抱えて診療所に飛び込んできた。
まだ紫野と抱き合って眠っていた蓮之介は、仙之助のダミ声に叩き起こされ、跳ね起きた。
「あなた」
二人だけの時は実に艶っぽく蓮之介をそう呼ぶ紫野が、すぐに察して蓮之介の身支度を手伝った。
「私もすぐ行きます」
「いいよ、ゆっくりしな……ちと可愛がりすぎちまったからな、昨夜」
「んもう……ばか……」
と言いながらも、紫野は手早く小袖をまとっていた。
「どうしたい、仙さん……お春坊に何かあったか」
「熱が下がらないのだ」
「お春坊は確か、6つだったな……どれ」
蓮之介はお春の耳の下を両手で触れた。
「ああ、こいつぁ……耳の下には人間の体を維持する為の液をこさえる袋があってな。そこに菌が入り込んで腫れさせるんだ。なに、子供ならたいてい罹るんだが、安静にしていないと予後が悪い。食べ物を受け付けねぇなら、そうさな、かつ節と一緒に炊いたおかゆの上澄みでもいい、とにかく汁気は摂らせてやってくれ」
蓮之介が処方箋を書き、紫野がそれを見て頷いた。
「ツユクサを乾燥させた生薬ですね。母子草の煎じ汁を併用すれば、喉の腫れも引いて食事がしやすくなるのでは」
「よし、うがい用に母子草を一緒に出してやってくれ」
「承知いたしました、すぐに。仙さん、もう大丈夫ですよ」
神仏を蕩かす笑顔と長屋の連中が揶揄する通りの美貌で、優しい声音で説明され、仙之助はヘナヘナと座り込んだ。
「ちょっと、仙さん……」
「姫先生にそう言われたら、何だか安堵して、こ、腰が……」
近所の骨接ぎ医を呼んで腰を揉んでもらっている間、お春は処置室で紫野が看ることとなった。
「どうだ」
診察の合間に顔を覗かせた蓮之介に、紫野はにっこりと微笑んだ。
「おかゆも頑張って食べましたよ。お薬も効いて、よく眠っています」
「そいつぁ良かった。紫野、しばらく頼んで大丈夫か」
「ええ。ただ診療所の方は」
「おたかさんが来てくれたから、順番を捌いてくれているし、いつもの連中だから、おまえの常備薬で事足りる」
「そうでしたか」
頷いた紫野は、傍らでよく眠る少女の顔を優しげに見つめた。
「可愛いなぁ」
「そんな顔していると、まるで母親だな」
「いやですよ……産めるわけないんですから」
「は? 」
「……どんなに愛し合っても、産めないんですもの」
ここのところ、ちょっと女性化が進んでいるような気もしないでもない紫野の呟きに、蓮之介は聞かなかったことにしようと背を向けて後ろ手に障子を閉めた。
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