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「おはよう、アキー。昨日の月9見たー?」
「うん、見た見た。やっぱ、孝さまかっこいいよねー」
いいなあ、朝から元気なクラスメートの女子達。
それに比べて、俺らの周りの男子達は、死んだ魚のような目で、明るい女子達の会話からにじみ出るオーラを眩しそうに見ている。まあ、夜中までゲームをやりこんでたり、エッチ系SNSの画像を追いかけてれば、黄色い太陽はまぶしいよな。
そんな、教室の対照的な雰囲気をぶち壊すように、担任である鬼瓦のバカでかい声が教室に入り込んでくる。ゆううつな、朝の朝礼の時間の始まりだ。
「よ、おはよう! みんな、元気か」
ここから、朝の最新ニュースや今日の予定をでかい声で聴かされるのは、いいかげん勘弁してほしい。そんなことを思っていると。
「──お、おはようございます」
鬼瓦のダミ声とは比較にならない、さわやかな女子の声が続く。
「ご両親の都合で転入することになった、吉沢さんだ。みんな、仲良くしてやってくれ」
教室中の男子の目が、急に活き魚のようになり、一斉に鬼瓦の横にいる髪の長いスラリとした女性に視線があつまる。なんだよ、みんな現金だなあ。そんなことを考えながら、俺も彼女に視線を向ける。
──と。
「田中くん、お久しぶり! 吉沢だよ、覚えてる? 小さいころ沢山遊んだよね、また遊んでね」
教室中に響き渡る澄んだ声でそう告げると、その子は教壇から駆け降りて、何が何だかわからないまま固まっている俺に向かって、わっと抱きついてきた。
教室全員の視線が、抱きつかれた俺と抱きついた彼女に集まる。
そして、一瞬の沈黙の後──
「きゃーっ」
「うぉーお」
「いやぁーん」
「やるぅー」
教室中の男子、女子の叫び声が狂気乱舞する。
その喧騒のなか、彼女は俺の耳元に吐息がかかるほど唇を近づけてから、そっとささやく。
「こんどの日曜日、『約束の場所』で待ってるからね……絶対に来てね。うふふ」
* * *
学校帰りの道すがら、俺は頭を抱えていた。
どうしよう、困った。
いや、教室でとった彼女の大胆な行動に悩んでるわけじゃない。若い女性に抱きつかれた行為自体は、突然でびっくりしたけれど、どちらかと言えば嬉しい。実際、もっとやって欲しいと思っているぐらいだ。
吉沢久美子、今日転入してきた女の子。
俺がまだ小学生のころ、近所に住んでいた女の子だ。近所に同じくらいの子供がいなかったこともあり、俺と彼女は学校から帰ると日が暮れるまでい
つも一緒だった。
でも、小学生では女子の方が体力があるから、俺はいつも彼女にいじめられて泣いて帰ってた。だから、おれの頭の中には、そんな悲しい過去の記憶しか残っていなかった。
約束の場所、なんだそれ?
俺がそんな待ち合わせの約束なんか、するはずないじゃないか。
いつも、いじられて泣かされる、そんな記憶の中をどれだけ一生懸命探しても、約束なんかした覚えがない。
約束っていうのは、自分と相手が対等な時にする契約じゃないのか? 俺と彼女の関係は、泣かされる側と泣かす側、弱者と強者の関係だったはず。
彼女に対する過去の記憶を思い返すと、いじめられた記憶が、もう封印していたはずの嫌な思い出が、よみがえってくる。
ああ、確かあんな風にパンツ脱がされたなあ、とか。あそこの池がまだ沼地だった時に、後ろから思いっきり突き落とされたとか。あれは、いたずらじゃないよな、完全ないじめだよな。今になって思う数々の悲しい過去。
だめだ、思い出せない。
嫌な記憶は腐るほど思い出せるが、場所を約束した記憶がない。
このままじゃ、また、彼女の悪戯の餌食になるしかないのか。
いや、さすがに、もう彼女も大人のはず。
誠意をもって謝れば、許してくれるハズ。ハズ? だと思う、かもしれない、こうなったら、命を懸けて謝るか。
* * *
翌日のお昼休み、お昼を食べ終わってクラス中に満腹感が広がっている、そんなゆるーい空気の中で、俺は吉沢さんに近づいた。どうしよう、彼女に近づくだけで緊張で目が回って倒れてしまいそうだ。
でも、いまなら、食後の満腹感に満たされた至福の時間なら、彼女も大丈夫だろう。俺をいじめてやろうなんて気にはならない、よね。
俺は、彼女にそっと近づいて声をかける。
「よ、吉沢さん。ちょっと話がありますから。屋上に来てくださいますか」
「ふー、なになに、どうしたの田中君、かしこまっちゃってさ。うん、おっけーだよ」
彼女は、何の躊躇もなく、屋上に向かって歩き出した俺の後ろを付いてくる。俺がこれから何をするのか、知らずに──
「吉沢さん、ごめんなさい! 約束の場所、分からないんです」
「……」
屋上に着いてすぐ、俺は屋上の防水加工された床に頭をこすりつけるようにして土下座する。吉沢さんが息をのむのが、彼女を見なくても気配でわかった。どうか、命だけは取られませんように。
何分たったのかもわからない、しばらくしてから、俺はおそるおそる顔を上げて彼女を見上げる。
後光がさしていた。
そう思えるような笑顔で、彼女がほほ笑んでいた。
いや、多分逆光の影響だろうけど。一瞬ほんとにそう思えた。
不覚にも、昔いじめられてたことも忘れて、心がキュンとしてしまった。
彼女は俺の手をつかんで立ち上がらせると、ぎゅっと抱きついてきた。
「ごめんね、そんな昔のこと、覚えてないよね。突然、約束の場所って言われても判らないよね」
彼女はそう言って俺の背中をそっとさする。
「お父さんの転勤で私がこの町を離れる最後の日、田中くんに渡した手紙なんか、もう覚えてないよね」
「──?」
え、ちょっと待って。最後の日って、俺の持ってたカードゲームのお気に入りキャラを取り上げて、これは『せんべつ』としてもらっていくね、って記憶しかないんですけど。手紙なんか、もらってない。そもそも、彼女から何かをもらったことなんか一度もないし。
「俺、手紙もらってない──」
俺のつぶやきに、吉沢さんはハッとする。それから、何かを思い出すようにして。てへへと頭をかく。
「あの手紙、私の君に対する本当の気持ちを書いたんだけど、恥ずかしくて結局渡さなかったんだ、った……ごめんね」
ぺろりと出した舌の赤さに、不覚にも、別の意味で虐められてもいいか、なんて思ってしまった。
(了)
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