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放課後のグラウンドで交わしたわずかな言葉から、律はどこか浮ついた気持ちを抱えながら日々を過ごしていた。
あの日からというもの、辻の存在が律にとって少しずつ「特別」なものに変わっていくのを感じていた。目で追わずにはいられない。教室の窓から、廊下から、ふとした瞬間に律の視界に映る綾人の姿が、心の奥で小さく灯をともすようだった。
数日後の昼休み、律は再びグラウンドを見つめていた。陸上部の練習が始まり、綾人が同級生と共にウォーミングアップをしている。どこか浮かない表情で周囲に合わせる律とは対照的に、綾人はただ前を見据え、何の迷いもなく走り続ける。その真っ直ぐな姿が、律には眩しく見えた。
その日の放課後、律はいつもより早めに学校を出たが、気がつけばまたグラウンドの方へと足が向いていた。偶然にも、ちょうど練習が終わったらしい綾人が、一人でストレッチをしている姿が目に入る。律はふとした衝動に駆られ、グラウンドの隅に立つ綾人に向かって声をかけた。
「辻、少し話せるか?」
綾人は驚いたように振り返り、律を見つめた。その一瞬の沈黙が、どこか甘く切ない期待感を漂わせる。
「…別に、構わないけど」
そう応じた綾人の顔には、いつもの冷静な表情が浮かんでいるが、その奥に律には見えない何かがあるように感じられた。二人は無言でグラウンドを出て、校舎の裏手にある小さなベンチに腰掛けた。
夕陽が差し込み、淡いオレンジ色に染まった空気の中で、律は少しだけ鼓動が速くなるのを感じた。
「なんで、あんなに必死で走ってるのかって思ってさ。聞いたところで、理解できるかどうかもわかんないけど…お前のこと、ちょっと知りたいと思った」
律の正直な言葉に、綾人は静かにうなずき、しばらく黙ったままだった。しかしその沈黙は決して重苦しいものではなく、二人の間に心地よい空気が流れていた。
やがて、綾人は小さな声で口を開いた。
「俺、実はあんまり誰かと話したりするの、得意じゃないんだ。陸上だけが、俺が自分でいられる場所っていうか…」
それは律がすでに聞いた言葉だったが、今はそれが前よりもずっと深く響いた。綾人にとって、陸上はただの競技ではなく、自分自身を守るための逃げ場でもあり、唯一の拠り所だったのかもしれない。律はその思いを理解しようとするように、静かに彼を見つめた。
「…そうなんだ。でも、お前が走ってる姿、俺にはただただ眩しく見えたよ。なんていうか、迷いがなくてさ」
律が思わず漏らしたその言葉に、綾人は少し驚いたようにこちらを見返した。そして、不意にふっと小さく笑った。
「…関口って、意外と真っ直ぐなんだな」
それはほんの些細な笑顔だったが、律の心に強く刻まれた。綾人の笑顔が、彼にとってこんなにも大きな意味を持つのだと気づいた瞬間、自分の気持ちが少しずつ形を成していくのを感じた。
もしかしたら、これは「ただの興味」ではないかもしれない。そう思うと、律の胸は少しだけ苦しくなった。
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