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あの棍棒のような弓を、本当に扱えるのだろうか。
久作の疑問をよそに、女は矢筈に弦を当てる。右手には、ほかに二本の矢を握っていた。三連射の構えだ。
白の小石を敷き詰めた矢場で、肩幅よりも足を広げて女が立つ。褪せた緑と朽ち葉の色が斑に散った上衣と袴は、白く陽を浴びる矢場に、森の陰をはりつけたかのようだ。
久作には、女が実物以上に大きく見えた。見物のために城内の矢場へと集まった侍たちの、倍ほどの背丈だと錯覚する。筒袖に通した腕と、裾を高く絞った袴の脛が目を疑うほどに長い。春風が、肩で切り揃えた垂髪をゆるくゆらす。
歩数にして百を優に超えた場所で、木偶が兜と鎧を着せられていた。この甲冑は、久作が影武者として戦で身につけた物だ。今はなき主君と同じ品。粗末な拵えではない。
かつては自らの身を守った武具を的にするよう命じたのは、筆頭家老の市兵衛である。重臣の悪意を、久作は感じ取っていた。市兵衛が、病で死んだ主君に目を掛けられていた者たちを毛嫌いするのは、今に始まったことではないのだが。
久作の目には、武装の木偶が掌よりも小さく映る。百歩離れて当てれば名人とされるのが弓である。風の吹く中で狙うには遠すぎる。
曲がるとも思えなかった弓が丸みを帯びるや否や、矢が放たれた。さして狙ったふうもない。あ、と思う間に二矢三矢と続く。
的からは、生木に斧を打ちこむような重く腹に響く音が出る。矢場に居合わせた多くの者が、胸や首を手で押さえた。気づけば久作も、腹に掌を当てている。自分が射られることはないとわかっていても、身の竦む音だった。真上で鳴る雷に胆を縮め、頭を抱えるのと似ていた。
女はすべてを的に当てた。兜、胸当て、胴の中心線を一分も違えず、矢が貫いている。鎧に突き立った矢は、鏃が背中に抜けていた。十歩ほどの場所から射たとしても、切っ先が貫通することなどない。
噂では、この女の守る荷を襲った賊は、腕や足、首を地に散らして死ぬと聞いた。この威力であれば、人の体が砕け散るのも道理だ。女が高名な用心棒であることに、久作は深く納得した。
「冴とやら。見事である」
筆頭家老の市兵衛が、称賛の声をあげた。
「輿入れ行列を守り切った後は、当家に仕官せよ。一介の武芸者が、儂ほどの者から直に招かれる。これに勝る名誉はなかろう」
市兵衛は平伏す冴を想像したが、現実は違った。冴は高々と頭を上げたままだ。切れ長の目を市兵衛に据えて動かない。
直接視線を浴びぬ久作ですら、背筋に強張りを覚える目だった。春の陽気を風が運ぶ。だが、市兵衛の痩せた頬はふるえていた。
冴が唇だけを動かし、声を地に這わせた。
「断る」
怯えを塗り隠すためか、市兵衛の怒声は矢場の塀で強くはじけた。
「おのれ。若輩の分際で、何様のつもりだ。ここにいる者皆で押し包み、殺してやろうか」
とんでもない。
久作は市兵衛に気づかれぬよう頭をふった。身勝手な家老の私怨に巻きこまれるのは真っ平だった。冷や汗が唇の端を通る。口に沁みた汗が塩辛い。
矢を入れた冴の箙には、矢羽根が森のように茂っている。この場にいるのは五十人ほど。冴の速射をもってすれば、塀の外に逃げられる者は、いて一人か二人だろう。
冴は、市兵衛の脅しを風にのせて消し去った。表情を変えずに問いを投げる。
「私が仕官を請わぬなら、姫を守る仕事も無しとするか」
長い沈黙が矢場に降りる。口を開く直前に、市兵衛がかすかに笑うのを久作は見逃さなかった。
「日取りを選びに選んだ祝いの儀式だ。日も近づいておる。今さらほかの者をさがすのも手間だ。護衛だけを頼む」
気に入らぬ者を蹴落とす時、市兵衛は唇の片側だけを上げる。久作は、自分が足軽組頭を命じられた際にも、ゆがんだ笑みを見た。
「冴とやら。弓ではなく、槍で輿入れ行列に加われ」
頭を少しかしげた後に、冴は首を縦にふった。
「城内の槍を使え。おい、偽久、持って来い」
市兵衛の言葉を冴が塗り替えた。
「いや、まだ幾らか日がある。持参する」
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