妻から母

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妻から母

 寿王には異腹の兄弟がたくさんいるが、同腹の弟と妹もいる。ある日、実弟の李琦が血相を変えて飛び込んで来た。  母が死んだ。突然の事だった。  寿王は悲しんだが、それ以上にほっとしていた。野心家の母に利用される事はもうないのだ。周りにくっついていた太鼓持ちの連中も、潮が引くように見事にいなくなった。道路はこんなに広かったのかと、寿王は驚きながら歩いた。それだけ人に囲まれて生活していたのだ。  玉環とはようやく打ち解けていて、葬儀をまとめながら母の思い出を語ったりした。せめて孫の顔を見せてやりたかったと言うと、玉環は、いつか元気な子を産んで、お墓参りに行きましょうとやさしく笑った。  問題だった皇太子も寿王より年長の皇子に決まり、華やかさはなくなったが、寿王は新しい静かな生活に満足していた。  数カ月が、何事もなく過ぎた。高力士が来た時も、寿王は遅い弔問だとばかり思っていた。 「そんな事を、本気で言っているのか、高力士殿」 「陛下は本気であるからこそ、私を遣わされた」 「玉環を、父の後宮に入れろとはどういう事だ。僕の妻として連れてきたのは、あんたじゃないか」 「陛下は、あなたの御母上を亡くして食事も政務も手に付かぬ。そばにいてくれる女性が、どうしても必要なのだ」  そう言って高力士は深々と頭を下げた。そしてそれ以上何も言おうとしない。 「断る。帰ってくれ」  寿王は追い払うように手を払う。だが高力士は微動だにしなかった。寿王は強引に高力士を押そうとしたが、体をかわされて倒れ込んだ。寿王は起き上がり、煮えた鍋が吹きこぼれるように怒った。 「皇帝ともあろう者が、色惚けも甚だしいぞ。三千の美女より息子の嫁か」  高力士は、それでも淡々として言った。 「何を言われても、不敬とは取らぬ。ただ承知してくれればよい」 「しない。死んでもせんぞ」 「――では、そうお伝えいたす」  高力士が、少し笑ったように見えた。そして寿王に背を向けると、ゆっくり帰って行った。まるで木彫りの人形が歩くような、不気味な動きだった。 「本当にそう言ったの?」  その晩、寿王は蒼天を呼んで一部始終を話した。 「本当だ。玉環を父が」 「そうじゃない、あなたよ。死んでも嫌だって言った?」 「言った。考えてみますなどと言えるか」 「殺されるわよ」 「まさか」 「恥を承知で、息子の嫁を奪いに来たのよ。それくらいの覚悟はしてる」 「…………」  普通の親子の関係ではない。一天万乗の皇帝と、いくらでもいる皇子の一人である。――例えば「皇太子になれなかったのを恨んで皇帝暗殺を計画した」とでも疑いをかけてしまえば、寿王など容易に葬る事ができるだろう。歴代の皇族で、こんな形で粛清が行われた例はいくらでもあった。  寿王はそこまで考えたが、頑なな目で言った。 「いや、そんな横暴は許せない。僕は死ぬ事なんか怖くない」  いきなり蒼天が寿王の頬を平手打ちした。甲高い音が部屋に響く。 「犬死にだわ。あなたが死んだら、陛下は喜ぶだけよ」 「じゃあどうすりゃあいい」  寿王は己の頬をさする。蒼天は、ため息をひとつ吐いた。 「玉環様に、きちんと話をして。彼女の意見も聞きましょう」 「それは。……心配をかけたくない」 「寿王、彼女はあなたより年上なのよ。自分で考えて行動するわ」  寿王はすぐには納得しなかったが、やがて力無く頷くと、玉環を呼んだ。蒼天もそのまま残った。  寿王が、高力士とのやりとりを話した。玉環は、始めは寿王が似合わぬ冗談を言っているのかと思って、合わせ笑いをしていた。が、寿王の顔色が尋常ではない事と、そばにいる女官の深刻な目に気づき、事実だと覚った。 「どうしてそんな事に。……陛下は何を考えておいでなのかしら」 「お前を欲しがっている、それだけだ。人の世の頂点にいる奴は、もう人間とは感覚が違うんだ」  寿王は、父親を未知の生物のように言った。玉環は床に座りこんだ。頭の中で、何一つ合理的な繋がりが起こらない。それでも考えようとすると、身体に力が入らなくなってしまい、床にへたり込んだ。  蒼天が何かを言いながら、玉環を介抱していた。寿王はそれを任せながら、いろいろな事を想定した。主に逃げる事を。父も、逃がさぬように用意を整えているだろう。弟を頼ろうか。しかし、身内は真っ先に手を回されているかもしれない。  そうだ。蒼天なら、使用人だけが使う裏道を知っている。変装させて、玉環だけでも逃がす事はできないだろうか。  そう思って振り向いた寿王の前に、蒼天が立っていた。寿王が口を開こうとした途端、彼女の後ろから、玉環の声が聞こえた。 「決めました。陛下の下へ行きます。私たちが生きるためには、これが一番確実です」  玉環は、これまでにないくらい落ち着いた顔をしていた。寿王は、蒼天を押し退けて玉環に駆け寄った。 「何を言う。逃げるんだ。女官に紛れればいい」  それを聞いた蒼天が冷静に言う。 「寿王様、女官は皆顔が割れています。それにお屋敷も、さっきから監視されているみたいです」  玉環も、ゆっくり簪を直しながら言った。 「周到な準備をした上で、あなたに話しに来たんでしょうね。是非を伺うつもりではなく、一応筋を通しただけのような気がします」 「……まさか、それほどまでとは。僕が甘かった」  気が付かなかった自分を責めようとする寿王の手を、玉環はそっと握った。 「あなたの落ち度ではありません。あなたは命を賭けて私を守ろうとしてくださった。そこまでできる方とは、正直思っていませんでした。今度は私の番です。――李蒼天がさっき言いました。急がないと、勅使が来てしまうと」 「勅使――?」  いきなり扉を叩く音がした。続いて勢いよく扉が開かれ、ものものしい出で立ちの文官が力強く踏み込んで来た。  文官は、手にした黄色い巻物を広げて声を上げた。 「勅令! 寿王李瑁に、陛下暗殺の意ありとの通告あり。今日より謹慎し、追って沙汰を――」  来てしまった。聞き終えてしまったら、勅令が命を持つ。黙らせねば。寿王は飛び出して、拳を振り上げた。しかし、彼より一瞬早く、蒼天が勅使を張り倒した。勅使は回転しながら吹っ飛んだ。  それを見た玉環が、進み出て蒼天を後ろに庇いながら言った。 「勅令は聞いていません。私はこれから、自らの意志で陛下の下へ行くところでした。案内なさい」 「いえ、あの……寿王殿下に勅」 「早くなさい! 蹴り飛ばされたいの?」  慌てた勅使は、立ち上がろうとして燭台にしがみつき、倒してしまった。火は勅書に落ち、一瞬にして燃えた。勅使は悲鳴を上げた。勅書の損失は重罪である。  蒼天が落ち着いた動作で火を踏み消し、言った。 「勅書は読み上げる前に、奪われて燃やされた。そう言う事にしましょう。殿下は何もお聞きでない」  勅使は冠が外れるほど激しく頷いた。脅えて声も出ない。 「玉環、本当に行くのか?」   玉環は、そう聞いた寿王に歩み寄った。 「陛下はもうあなたを消す決心をしている。私はこの身を賭して、できる限りの事をやってみます」  寿王は遮ろうと出した手を止めて、胸に渦巻いていた熱い息を吐いた。 「そうか。……済まない、後は任せる」  玉環は暖かい微笑みで夫に答えた。勅使は衣服を正し、玉環を部屋の外へと促した。誰も別れの言葉は言わなかった。  ただ最後に、寿王が一言だけ言った。 「僕たちは、いい夫婦だったね」  玉環は振り向かず、足早に部屋を出た。涙が溢れて来たのだろうと、寿王には分かっていた。蒼天が少しだけ、声を漏らして泣いているのが聞こえた。
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