マグカップ

1/1
前へ
/1ページ
次へ
 マグカップが割れてしまった。  リビングの床には、その無残な姿がさらされている。  それは、病気で亡くなった妻の倫子が、いつかのプレゼントでくれた物だった。  龍造は曲がった腰をさらに曲げ、破片へと手を伸ばした。  しかし、その手は破片に触れることなく止まった。  ――いや、もういいか……捨てよう。  龍造と倫子は、お見合いで結婚した。倫子は女性にしては大柄で、傲慢、口も悪かった。思い出されるのは、いつもうるさく文句を言われた記憶だった。マグカップだって惰性で使っていただけだった。  と、そこへ、孫を見送った娘の巴がリビングに来た。 「え! 割れてるじゃない。いいよお父さん、危ないし私やるから」  巴はいそいそと破片を集め始める。  そんな巴に、「捨てておいてくれ」と告げ、踵を返す。 「え、でもこれって……」振り返る巴。 「もう、いらん」と龍造は背中で言い放ちリビングを後にした。  ――その日、龍造は何故か、なかなか寝付く事ができなかった。  早朝、起きてきた龍造がリビングで目にしたのは、元の形に戻ったマグカップだった。  龍造に気が付いた巴が朝ごはんの支度をしながら、声を飛ばしてくる。 「お父さんおはよ、なんか寂しいし、直しておいた。お母さんからのプレゼントなんでしょ、それ。まあ……応急処置だから、漏れてくるかもだけどね」  マグカップは綺麗に貼り合わせてあった。  龍造は思わず手に取り、マグカップの表面をなでる。 「器用なもんだ……」 「まあね、お母さんの娘ですから」  龍造は巴の言葉にはたと思い出す――。  倫子は大柄の割には手先が器用で、龍造が割った茶碗なんかを幾度も同じように直してくれた。それに、確かに倫子は傲慢で、口うるさかったが、感情豊かで表情がころころ変わる人だった。それは、口数の少ない龍造にとって楽しい刺激でもあった。  そこへ、巴が湯呑を龍造の前に置く。 「お茶飲むでしょ、今日はこれで飲んでね」  しかし、龍造は貼り直されたマグカップを差し出す。 「入れ直してくれ、これに」 「え、漏れたらどうすんのよ」と、言った巴だったが、龍造の顔を見て、仕方ないわねと入れ直してくれた。  龍造は、今日もいつものマグカップでお茶をすする。  在りし日に思いをはせ、その口元は柔らかく緩んでいたのだった。
/1ページ

最初のコメントを投稿しよう!

0人が本棚に入れています
本棚に追加