第一幕 2話●Sterbell

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第一幕 2話●Sterbell

 王都ルティアの街を抜け、王宮を目指す馬車群の中に、ひときわ巨大で堅牢なものがあった。  北方アレイシア王国より長旅を経てやってきたその馬車の広い車内で、少年シュテルベルはころんと横になっている。冷たい雪のような白銀の髪に、同じく白い柔らかな肌。まるで少女と見紛うような容姿だが、これでもれっきとした男児である。  いとけない表情で目を閉じているその頬の下には母マティルダの膝があり、すらりとした長い手が頭を撫でてくれている。また正面には、自慢の白髪を譲り与えてくれた父――アレイシア王国現国王ヴォルフガングの、縦にも横にも大きな姿が。  後方の一回り小さな馬車からは賑やかな声が上がっていた。向こうには長兄のヴィルヘルムと次兄のハーヴィー、加えてもっとも年上の長姉アガーテが乗っている。  乗り分けの時、幼いシュテルベルは自然と両親と同じ馬車を選んだが、今にして思えばこれは失敗だった。何せ、こうして寝ているばかりでは退屈だ。  しかも実を言えば、彼はもう随分前から目覚めているのだ。にもかかわらず身体を起こさないのは、そばにいる両親が非常に起き上がりにくい会話をしているからに他ならなかった。  馬車の窓から街を行き交う人々を見て、父が言う。 「ほほお、まったくいつ見てもクロネリアの女性は美しい。こういうのはやはり土地柄かのー」  緩く丸まった父の目尻に向けて、母は淡白に、しかし確実に棘を含んだ声音で返した。 「よろしいのですよ、お声をかけたい方がいらしたなら、行ってきても。ただし馬車は止まりませんので、あとは走って追いかけてきてくださいね」  すると父はぎょっとして窓から目を離す。 「ま、待て待てマティルダ。そんなに怒らんでも」 「怒ってなどおりません。ですがあなたの浮気心のために会議に遅れてしまっては、先方に申し訳が立たないでしょう」 「や、まあ……とはいえ三国同盟会議なのだから、わしがおらんと始まらんじゃろう……?」  低姿勢で恐る恐る尋ねる父だったが、母は毅然とした態度を崩さない。 「そうでしょうか。正面切っての戦ならいざ知らず、外交であなたの出番など、よほどありはしないでしょう。特にクロネリアは、その土地柄もあって貴族に女官が多いのです。女の下手なおべっかも見抜けないあなたでは、お話にならないのですよ」  なんと歯に衣着せぬ物言いか。それでも父は苛立った顔一つせず。 「す、すまぬすまぬ。そんな笑顔で凄まんでも……わしがお前を差し置いて他の女性に声をかけるなど、あるわけがなかろう? お前のようにアレイシアの王妃が務まる豪気な女性は、クロネリアのどこを探してもおるまいて」 「どうでしょうね。私の見ていないところでは、しょっちゅう色んな女にちょっかいを出していると聞きますが」 「まさかまさか、まさかまさか、まさか」  知らぬ存ぜぬでぶんぶん首を横に振る父は、なんとも一国の王らしからぬ姿をしていた。  こうしたやりとりを今まで何度も見てきているから、幼いシュテルベルでも、もうわかっている。これが正真正銘、掛け値なしの二人のパワーバランスだ。それはシュテルベルがアレイシアの城で読む物語の、どんな王や王妃とも違う。  それでも、決して悪いことではない。どころか今の祖国にとって、望ましいとさえ思われた。  長きに渡るアレイシア王国の歴史を遡れば、それは戦争の歴史だと教わっている。過去、いずれの時代においても関わった戦争という戦争に尽く勝利し、旭日昇天の勢いで発展を遂げた。  それを可能にしたのは建国の祖、戦を司る半神アレスより受け継ぎし『一騎当千の権能』だ。大小多彩な刀剣、槍、棍、そして弓。あらゆる武芸に優れ、かつその身体は岩よりも硬く、駆ける脚は馬より速く、拳を握れば砕けぬものはないとまで言われた力。各国が単純な武力を競い合っていた時代では、国力でアレイシアの右に出る国など、ついぞ現れなかった。  けれど幸か不幸か、今の大陸は泰平の真っ只中。戦なき時世で戦に優れた王がどれだけの人心を得られるかと問えば、苦しい答えが返るだろう。髀肉の嘆をかこつとはまさにこのこと。実際、近年では武力とはまた別の面での劣勢により、徐々に国の版図は狭まってきている。  剣よりもペンが、武術よりも交渉術が、兵法よりも治法こそが、為政を行う者にとって必要な時代。この点では間違いなく、父よりも母のほうが優れていた。 「ふん、まったく。馬鹿なことをしている暇があったら、少しは会議に向けて頭を動かしてくださいな。三国同盟は健在ですが、その平和に胡座をかいているわけにはいきませんよ」 「もちろん、もちろん、わかっておるとも」 「本当ですか? 我が国は地理的な難しさが災いして、どうしても流通の滞る傾向にあります。このため経済成長は今一つ。その横でガイオンはさらに力をつけていますし、クロネリアの時勢を読む力にも、変わらず隙がありません。このままでは、国力の差は開く一方です」 「いや、うん、まあ、わかってはおるんじゃが……かといってしかし、どうしたもんかと」 「ですから、今日の会議が重要なのです。アレイシアには、技術がある。各国の貴族に北方への街道の整備を促すなり、街での市の開催を広く周知するなり、いくらでも手はあるでしょう」 「う、うむ。なるほど、確かに」  答えながら、父は何度か頷いてみせる。こういう時の母の進言はだいたい的を射ていることが多いし、そもそも父に言い返す勇気がないというのも事実だろう。 「並行して、我々王家としても、他国と同盟関係以上の繋がりを形成するよう努めるべきです。確かクロネリアには、一人娘の王女がいたではありませんか。その子はシュテルベルと歳が近かったはず。うまく婚姻関係を結ぶことができれば、我が国にとって大きな利となるのでは?」  けれど珍しく、この日は違った。  続けて頷きかけた父が静かに固まり、控えめながらも抗議の言葉を口にしたのだ。 「待て待て。シュテルベルは、その……」 「……なんです?」これには母も少しばかり驚いたのか、怪訝そうな顔になった。「シュテルベルを婿にやりたくない理由でもあるのですか」 「いや、わしは、シュテルベルが、国王になるのがよいかな……なんて……」  そんな蚊の鳴くような父の声を聞いて母は、きっ、と目尻を釣り上げる。 「あなた、まだそんなことをおっしゃっているのですか! シュテルベルは末子ですよ!」 「じ、じゃが」 「じゃがもジャガイモもありません! いいですか、このままいけば来年の春には長男のヴィルヘルムが十五を迎え、今あなたがお宿しの権能を継承するではありませんか。それと同時に王位も継承するのが、古くからの習わし。その時、シュテルベルはまだ九つですよ。兄を差し置いてこの子が王位を継ぐ道理が、いったいどこにありましょうか」  まくし立てられて、父は「うぅ……」と口ごもった。  母の言う通り、次の春に長兄が権能と王位を継ぐ未来は、よほど揺るがないだろう。  そうあるべきだと、シュテルベルも心から思う。悪戯に家族の不幸を願うような育ち方はしていないし、古今東西、継承争いは王家の大敵だと、先日書物で読んだばかりだ。  けれども、当のシュテルベルより聞き分けのない父がまだ食い下がる。 「のお、マティルダよ、お前の考えはもちろん正しい。ただ、それでもわしにはわかるのじゃよ。シュテルベルには、わしや先代よりもはるかに優れた、類い稀なる武の才がある。この子は、戦神アレスに愛された子じゃ。古くよりアレイシアの王は、国でもっとも強き者が継いできた。その習わしに則るなら、王座にはやはりシュテルベルが――」 「あなた! いい加減、幼な子のように駄々をこねるのはお止めください。それに私は、息子たち三人の中でシュテルベルが一番強いだなんて、にわかには信じられませんが? この子は二人の兄と比べて、身体は小さく、線は細い。城にはつい最近まで女の子だと思っていたなんて者もいるくらいです。実際、時折見かける剣術の稽古では、シュテルベルはいつも真っ先に負けてしまって、ヴィルヘルムとハーヴィーが最後まで競っているではありませんか」  アレイシアにはその建国の経緯から、武を重んじる文化が根強く残っている。本来は戦うことに縁のない農民や商人、職人といった民の間でも、力強いことを美徳とする価値観がよく見られるし、貴族であればなおのこと、何よりもまず騎士道だ。こうした考えは当然、母の中にだってあるが、父のほうがより顕著と言わざるをえない。 「シュテルベルは……この子はとても優しい子じゃ。無意識のうちに兄二人を立てて、一歩引いていおるのじゃよ。それでも、しっかりと見ていれば差は歴然。容姿が可愛らしいのはともかくとして、シュテルベルは既に、きょうだいの中でもっとも強い。だからどうか、王にはシュテルベルを。でなければせめて、アレイシアで随一の師をつけて国一番の武人に!」  父の言葉は、まるで祈るようでもあった。聖母アリアと祖神アレスへの祈り、己が内に抱く信念への祈り、そして目の前に座る妻への祈り――ただし、それが届くのかといえば。 「何を、馬鹿げたことをっ! 今の時代、武人などにして国になんの貢献ができましょうか。クロネリアに婿入りして王配に、でなければ王座についたヴィルヘルムの補佐として大臣に。そのほうが、この子のためにも何倍もいいに決まっています!」 「そ、そんな……」 「いずれにせよ、ヴィルヘルムだって権能を継げば、あなたのように歴代の王たちが培ってきた武芸の極みを体得する。そうすれば名実ともに、王として相応しい存在になるはずです」 「それに」と母は続ける。「もとより今、個の武力だけでは、国は支えられますまい。王が武力によって民をまとめ上げた古きよき時代は終わったのです。この先、国と国の戦いは個と個ではなく軍と軍。それはつまり、富と富の競い合い。規模が大きくなれば、一人の指揮にだって限界はあります。王だけが一騎当千の力を持っていても、国は守れないのですよ」  父は、今度こそ口を閉ざした。力なく萎れ、肩を落として窓の外へと視線を放る。ついでに心まで放ってしまいそうなその落胆具合に、シュテルベルは内心で苦笑するばかりだった。  敬愛する父からとても大きな、ともすれば過大でさえある評価を与えられていることを、嬉しく思わないはずはない。けれど一方で、そればかりが王位を継ぐ理由にはならないということも、早熟の彼にはわかっていた。  生まれてこの方、王座を狙ったことなど、一度だってない。  長兄が国王を継ぐ。その若き王を後ろで父と母が見守り、横で長姉と次兄が支える。  なんと、望ましい未来だろう。もしその時、自分がその場にいなくとも、遠くの地から家族と祖国のためになれるのなら、これほど幸せなことはない。  やがて、彼らの乗る馬車が目的地である王宮の正面玄関に到着した。 「着きましたよ」と母に声をかけられたシュテルベルは、まるで今しがた目覚めたかのように身体を起こす。馬車を降り、出迎えの召使いと話す両親の横で、なんとはなしに周囲を見た。  広大な庭の中央にあるのは白い石造りの噴水。景色は目の届く限り、青々とした芝や鮮やかな花々に彩られている。さすがは花の国。書物や巷説で見聞きするばかりだったが、実物は想像よりもずっと素晴らしい。  その一枚の絵画のような光景の中、まだまだ後方に連なる馬車と人の列に紛れて、さっ、とシュテルベルの視界に映り込む何かがあった。  一瞬だった。王宮の壁の向こう、わずかだけ垣間見えた、小さく素早い少女の影。けれど一瞬であっても強く印象に残る、それが纏っていた煌めく赤。  このあとは、シュテルベルは乳母とともに滞在中の部屋に向かうだけだ。まだ幼いため、父や母、残りのきょうだいたちと違って会議には出席しない。午後の園遊会までお役御免である。  母に教えられたそんなスケジュールを十分にわかったうえで、ふと突飛な考えが頭に浮かんだ。ああ、きっとこういうところが父譲りなのだろうなと思いながら、シュテルベルは周囲の目が離れた隙に、静かにその場をあとにした。
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