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第一幕 3話○Melia
メリアは賑わう王宮内を巧みにすり抜けて庭園へ出た。親切な友人から貸してもらったエプロンドレスのおかげだろうか、何人かとすれ違ったが、正体が露見するようなことはなかった。
今日は裏門が通れないらしいので、仕方なく目的地を変更する。できるだけ人目を避けながら、王宮側方の小さな通用門を目指すことにした。
その門は、出たとしても王宮のすぐ横で蛇行する川に囲われた曲輪のような敷地に繋がるだけで、街との行き来には使用できない。ゆえに普段から警備も厳しくない場所である。
メリアはそこから王宮を抜け出す。
門の外は王宮の管理下ではないため自然のままだ。背の高い樹々が森のように茂っていて、人の足が平しただけの小道は、すぐに行き止まりの川辺に突き当たる。
広い川を前に空間の開けたその場所は、彩り豊かな花畑。特にこの時期は一年のうちで最盛と言える。美しい景色に、息苦しい王宮を脱した解放感も加わって、メリアは表情を輝かせた。
咲き乱れる花たちの間で膝を折る。手を伸ばしたところにはちょうど、立派に育った真紅の一輪。自らの髪と同じ色のそれを摘み取って眺め……その時ふいに、彼女の背後で足音がした。
「ひあっ! 誰!?」
即座に振り向く。誰かに追われているなんて考えもしなかったので驚いたが、しかし、そこにいたのは子供だった。なんとも可愛らしい、自分と同い歳くらいの少女のようで……だからだろうか、見つかった、とは思わなかった。
「あ、いや。決して、怪しい者では」
両手を前にして首を振るその子は、丈の長いローブのような服を着ている。非常に整った身なりで、一目で高貴な身分だとわかる。
短く切り揃えられた白銀の髪は、クロネリアではほとんど見ることのない雪に似ていた。ひとしきり弁明をすると、その子はメリアとの距離を空けたまま、慣れた所作で軽く腰を折った。
「三国同盟会議に際し、アレイシア王国より参りました。シュテルベルと申します」
声にも表情にも敵意はなく、人懐っこい印象を受ける。こうして面と向かっても特別な反応を見せないあたり、おそらくこちらの素性については知らないのだろうと思われた。
「メリアよ」とだけ小さくこぼし、おずおずと尋ねる。「会議に来たのに、こんなところにいてもいいの?」
「ええ、まあ……正確には、会議に来たのは両親と他のきょうだいで、連れてこられただけの身としては、午後の園遊会まで用無しといった具合です」
シュテルベルと名乗ったその子は曖昧に微笑みつつも、少しだけ残念そうな声音で答えた。
一方のメリアは、出席するよう言われてもなおそれをすっぽかしてきたわけだが……遠い異国から何日もかけてやってきてさらに待たされるというのも、それはそれで気の毒なものだ。
「そう、なのね」
それからいくらかの沈黙ののち「そちらに行っても?」と尋ねられたので、こくんと頷いた。
シュテルベルが静かに歩み寄ってくる。その動作一つ一つはとても淑やかで、どこか気品に溢れていた。常々マルガリタや母から王女としての振る舞いを説かれ続けているメリアにとっては、まさしくお手本のようなそれだ。
見上げた瞳は、背後の淡い空と同じスカイブルー。近づくといっそうわかる肌の白さは、まるで日の光など知らぬかのよう。
「花を、摘んでいるの?」
はっとメリアは我に返る。距離が詰まるのにあわせて相手の口調が砕けたものになっていることに、少し遅れて気がついた。あまりに自然とこちらの懐に入り込んでくるその馴染みやすさは、きっと天性のものなのだろう。鈴のように適度に高い声も、なんだか耳に心地いい。
「それは……クロネリアの花、だね」
「え、ええ。外の国から来たっていうのに、あなた、よく知っているわね」
「うん。その花はアレイシアの市場でも扱われているからね。でも……こんなふうに花畑になっているのは初めて見たよ」
シュテルベルの言う通り、メリアの手に握られている赤い花は一般に『クロネリアの花』と呼ばれている。もちろん赤だけでなく、他にも黄、白、オレンジ、そして紫、あるいはそれらの中間色。辺り一面で風に揺れるそのほとんどは同じクロネリアの花だ。これらの品種がそう呼ばれる理由は簡単で、まさしくクロネリアでだけ育つものだからである。
気温か地質か、植生に寄与する条件は何かしらあるのだろうが、未だはっきりと解明はされていない。地理的希少性に加え、そうした神秘性も相まって、国内外問わず需要が高いのだ。
たいていは人の膝くらいの高さまで育ち、細くしなやかな枝の先に円形で大ぶりの花をつける。八重咲きの花弁は鮮やかな色合いと優良な香りを持つことから、香水の原料を始め、食用にも用いられる他、観賞用にも事欠かない。日を追うごとに美しく蕾が綻んでいくその様は、誰もが一度は想い人の笑顔を重ねるだろうとまで言われるほどだ。
芽吹きは春。暖かさに誘われるように一斉に色づき、年によっては夏の終わりまで長く咲く。民の生活の彩りとしても、花卉産業の要としても、この国になくてはならない存在である。
「ただ、意外だったよ。アレイシアの花屋で見た時は、赤色のものだけ飛び抜けて高価だった気がするんだけど……こうして見ると、育つ数にそれほど差があるわけじゃないんだ」
「ああ、えっと、そうね。よく誤解はされるみたいだけど……色と育ちやすさは関係ないの。でも外国で赤い花だけが高いのは、その通りだと思う。赤い花はこの国の人にとっては特別だから、あまり外には出回らないの」
「特別? どうして?」
聞かれて、メリアはいつだったか、王宮の庭師に教わったことを思い返しながら話した
「えっとね……クロネリアの花っていうのは、国の外で花を売る行商人たちがつけた名前で、この国では元は『クローネの花』って呼ばれてたんだって。国を作ったっていう半神クローネの美しい髪の赤色が、花の赤色にそっくりだっていう理由で」
「へえ、そうなんだ。それは知らなかったなあ」
シュテルベルは気さくな、いくらか弾んだ声を返した。素直な感心がうかがえる声だ。
思いの外に手応えのあるその反応に、メリアは大きく身を乗り出して振り向く。
何しろ生まれてこの方、王宮で過ごした十年間、当然だがメリアはいつだって子供で、つまりは常に、教えてもらう側だった。ゆえに新しく覚えた知識を誰かに披露しようにも、周りの貴族たちは既に知ったことだったし、ではそこらの召使いを捕まえて聞かせようにも、皆、日夜忙しく働いている。それはもちろん、唯一の同世代であるクロエだって例外ではなかった。
そんな中で突如訪れた、得意げに蘊蓄を披露できるこの機会。口の端が思わずにまりと弧を描くのも、至極無理からぬ話ではないだろうか。
「そ、そう? 知らなかった?」
ふふん、とたまらず鼻が鳴ったのも許されて然るべきだ。
「うん。そっか、だから君も、赤色を集めているんだね。よかったら手伝ってもいいかな」
メリアとしては、その申し出を断る理由は一つもなく。
「本当? じゃあお願いするわ」と笑顔で応じた。
冷えた朝の空気はもう過ぎ去って、空の日も随分と高く昇っている。王宮では既に会議が始まっている頃だろう。
シュテルベルは立派なローブや靴が汚れるのも厭わず、せっせと川辺を巡ってくれる。
しかし一方、メリアはといえば、まだ、喋り足りないのだった。
手を動かしながらもちらちらと彼の様子をうかがっては、その何度目かのタイミングでまた立ち上がる。そうしてしゃがむシュテルベルの背に近づき、膝を抱えるようにして肩を並べた。
「でね、でね。さっきの話にはまだ、続きがあってね」
「さっきの話? クロネリアの……じゃなくて、クローネの花の?」
「そうっ!」
メリアは嬉々として語り出す。
民の愛した赤いクローネの花は、いつの頃からかクロネリアの国花となった。
そしてある時、王宮に仕える著名な詩人が、崇拝する女王の美しさを称えるために、ある一編の詩を作ったそうだ。詩の中で赤いクローネの花は『女王の花』と称され、さらに当代の女王リラの御名を借り『リラの花』と改めて呼び直された。
以来、街では女性の美しさを喩えるのにその花を引き合いに出すことは教養の一種とされ、徐々に市民権を得ていった。こうした流行は時代の移ろいとともにやがて一つの文化となり、新しい女王が即位すれば、誰もが自然と、その花を次代の女王の名で呼んだ。
そこまでこれば、もはや新たな伝統だ。現在に至り、赤いクローネの花は女王が代替わりするごとにその名を引き継ぐ『名変わりの花』として、名実ともに国の象徴的存在となっている。
「名前の数は、関心の数。名前が多いということは、この赤い花がそれだけクロネリアに生きる人々の関心を集めているということだ、って教えてもらったことがあるの。私も、とっても、そう思う。みんなこの花を、自分にとって親しみやすい、好きな名前で呼ぶのよ。するとその人の個性が出たり、世代や出身地域がわかったりもする」
「なるほど。うん、それはすごく、面白いね」
「でしょ? まあでも一応正式には、現女王の名前で呼ぶことになっているんだけどね」
例えばお店の看板とかね、と続けるメリアに、シュテルベルは少しだけ考える仕草をする。
「ということは、今のクロネリアの女王陛下は、ローザ様というそうだから、正式には『ローザの花』って呼ぶのかな?」
「その通りよ!」
答えながら、メリアはしゃがんだままで天高く胸を張った。
「そしてこのローザの花はまさに君のような、この国の美しい女性を喩えるためにあるわけだ」
「そっ――」
その通りよ、と勢いのままに二度目を言いかけて、しかしメリアは固まった。同時にはたと、古い記憶が蘇る。
確かにメリアは昔、よくこの花に喩えられていた。それ自体は純粋に嬉しかったのだが、歳を重ねるごとにそんな褒め言葉は変化していったものだ。
幼い頃は誰もが掛け値なしに「女王陛下に似てなんと可憐な、まさしくローザの花のよう」
ただ三年ほど経過すると「これはこれは、随分とご活発になられたようで、乱れた髪は舞う花びらといったところですか」
ここ最近に至っては「ええ……ご容貌は大変、花のようにお美しいのですが……まあその、はい、言動はともかく」
イラッ、と思い返すとたまらずこめかみに努筋が浮いた。特に最後の奴には、お返しに不敬罪と称して脛を蹴り上げてやった覚えがある。それでも、こんな世辞にもならない出来損ないの美辞麗句でさえ、貰ったのはもう随分と前のことだ。
いつもなら反抗心で悪態をつくところだが、それにしては先のシュテルベルの賛辞は完璧すぎて……すると今度は逆に、卑屈な気持ちが大きくなってくる。
メリアは力なく肩を落とし、ちょうど目前にある赤い花……の隣に咲く白い花に手で触れた。
「私なんかよりもあなたのほうがよっぽど……ほら、色は違うけど、お花みたいに可愛いわ」
花の赤は、元は半神クローネの髪の色。つまりは巡り巡ってメリアの髪の色であるが、くしくもシュテルベルの髪も、この白い花にそっくりだ。
するとシュテルベルは、わずかに困ったような笑みを浮かべる。
「えっと……褒めて、くれているんだよね。ありがとうって言うべきなんだろうけど……でも男としては、そう言われるのも複雑というか……」
途端、メリアは驚いて声を上げた。
「えっ!? 嘘。あなた、男の子なの!?」
「はは……実はね。女の子の君よりも背が低くて、情けない限りだけど」
言われてみれば、確かにメリアのほうが少しだけ背が高い。
けれどもちろん、体躯で判断していたわけではなかった。全体的な印象や線の細さ、柔らかそうな白い肌に優美な振る舞い。それらから無意識に女の子だと思い込んでいた。
戸惑うメリアに、シュテルベルはまるで念を押すかのように、少し低い声音で言った。
「だからやっぱり、この花は君を喩えるためのものだよ」
目の前で咲く赤い花に右手で触れ、優しく摘み取ってこちらに微笑む。「綺麗だね」と。
同時にメリアの心臓がまた、驚きで弾んだ。
驚き――違う、高揚だ。さきほどまで普通に話していたけれど、てっきり同性だと思っていた相手が異性と知れば、当然、言葉の意味も変わってくる。
だって、綺麗だねって……花が? それとも……。
頬が、かあっと熱くなっていくのがわかった。
はたして目の前の彼は、どういうつもりで言ったのだろう。とても平然としているように見えるのは、こういうやりとりに慣れているからなのか、あるいはただの天然なのか。いや、そもそも花のことだけを言ったのであれば別に動揺する理由はないのか。うん、じゃあそういうことにしておこう。
メリアはできるだけ冷静なふりをして、相手から顔が見えないように下を向いた。なんとか気を紛らわせようと、持っていた花をごそごそいじる。
そんなメリアの内心を知ってか知らずか、シュテルベルは横から顔を寄せて尋ねた。
「それは?」
「あ、えっと……この前、王宮で働いている友達に聞いたんだけど、お花を使って、冠が作れるみたいなの。せっかくだから、私も作ってみようかなって……」
花の茎と茎を撚り合わせて束ねたところに、さらに別の花の茎を巻きつけていくのだと、確かクロエが言っていた。聞いた通りに、それらしい形を目指して作っていくメリアだったが。
「でもなんか、意外と、難しくて――あっ!」
何本目かの茎を引っ張った拍子にぶちっと切れ、編みかけの輪っかが盛大に弾け飛んだ。
その光景を見たシュテルベルは、吹き出すようにして笑う。
「ふっ……あっははは! 君は、なんというか随分と、不器用だね」
言われるまでもなく、メリアにだって自覚はあった。さすがに普段はもう少しマシなものだが、今は緊張と興奮で特に、力加減が壊滅的だ。
「うっ……あなたね。事実でも、言っていいことと悪いことがあるでしょ」
「事実だって認めはするんだ。まあ確かに、今のは結構なレアケースだけど」
「悪かったわね。だって作るの、初めてなのよ」
「初めてでも普通、爆発はしないと思うよ」
さらりと発せられた失礼な感想に、ただでさえ赤い頬をさらに赤くしてメリアが言い返す。
「もうっ! うるさいったら! あんまり笑うと、不敬罪にしてやるんだから!」
シュテルベルはそこで、一瞬だけ目を丸くした。しかしすぐに表情を戻し、メリアのかわりに飛び散った花を拾い集める。
「あはは、ごめんごめん。じゃあ、今度は僕がやってみてもいい?」
「え、いいけど……できるの?」
「本で作り方を見たことがあるくらいだけど……大丈夫だと思うよ。こういうの、得意なんだ」
そう答えたシュテルベルは、もともと持っていた花と合わせてさっそく輪を作り始めた。その手際のよさはメリアも素直に感心したほどで、自然と手に残る数本を差し出す。
受け取ってもらう際、さきほどまでは細く美しく見えていた彼の手が、なぜか不思議と、逞しく映った。そよぐ風がいつになくひやりと冷たく感じられて、わずかに触れ合った指先から、この身体に灯った熱が彼に伝わってしまうのではないかと、人知れずメリアは恐れた。
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