クモ

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 田舎生まれ田舎暮らしであったから、虫は比較的平気だった。ゴキブリも一人でなんとか退治できるし、壁にカメムシがとまっていても別に大丈夫だし。けどトイレから出てきてあいつがこっちに向かって歩いてきたときは、あいつのあまりの迫力に声を出すことも動くこともできなかった。まぁ声を出したところで助けに来てくれる父も母も、もういなかったのだが。  そしてあいつはあいつで、目の前に急に私が現れて驚いているようだった。気のせいかもしれないが、あちゃあーという顔をしたように見えた。そして立ち止まるのも気まずいのか、少しだけ歩みを遅くして廊下の端をそそくさと進み、置いてあった古い棚の裏に隠れてしまった。  それがファーストコンタクトで、それからしばらくは姿を見なかったが、なぜか今は堂々と居間の隅に陣取って、私と一緒に映画を見ている。一緒に酒を飲めないのが残念だ。いや、試していないだけで、案外飲めるくちかもしれない。  ネットにはアシダガグモは益虫で、ゴキブリなんかを食べて退治してくれるから家にいても慌てないで放置していればいいなんて書いてあるけど、現代に生きる私たちに、あの姿をみて慌てるな、共生せよなんて言われて、はいそうします、なんて澄ましていられると思う? まずなんか足がすごい。長いし、動きがやばい。それにゴキブリ食うの? まぁ、お前ならゴキブリも食えそうだよな。ちょっとおえってなるわ。固そうで、クモのくせに巣はらないし。それは助かるけど。とにかく、ちょっと見た目がいかつすぎる。でも、ほんとに人間に配慮してくれて、普段は絶対に姿を見せないようにしてるし、こうやって私の前にはがんがんに出てくるようになってもたまーに友達なんか来たときなんか、絶対に出てこない。ほんとにものが分かってるやつなんだ。人間の質の悪いやつなんかよりよっぽど話がわかる。秋の虫みたいにチャラチャラ鳴かないのも好感がもてる。  いつ頃だったろう。私が夜にどうしようもない気持ちになって一人で酒飲んで少し薬も飲んでしまって、それでめそめそとしていたら、テレビ台に乗っかって、テレビに隠れるようにしてこちらをおずおずと見てくるあいつと目があった。それからたびたび私の前に現れるようになって、私もあいつに慣れて、話しかけるようになった。いや、やばいのは分かってんのよ。  あいつは別にうなずくわけでもなし、声を出すわけでもないのだが、確実に聞いてくれていた。それで理解してくれていた。少なくとも私にはそう思えた。  この家は私が生まれてから大学に進学して家を出るまで住んでいた家で、住んでいた祖母も両親も亡くなってしまって、仕事を全てリモートに切り替えて移り住んだのだ。四十を過ぎても独身の私はこういうときあまりにも身軽で、あまりにも孤独だった。その身軽さを選んだはずだったし、両親も祖母もいつか亡くなるとわかっていたはずだったし、友達だってそれぞれの家庭に忙しくなるとわきまえていたはずだった。それでもどうしようもない夜というのが訪れる。そのぽっかりと開いた暗い穴みたいな夜をあいつは一緒に過ごしてくれた。  満月には少し足りない月が出ていた晩だった。季節は暑さをやっと抜けて、まだ寒さも訪れていない心地よい夜を縁側で夜風に吹かれながら案の定私はイワシを肴にして酒を飲んでいた。庭と呼ぶにはちっぽけなそこには母が元気だったころには多くの野菜が所せましと植えられていたのだが、今はただ漬物石がいくつか転がっているばかりで、殺風景なことこの上ない。しかも妙に高い生垣のせいで、借景などという風流も望めない。それでも自然の風に当たっているだけで、心地よかった。  がさり。  父の植えた椿のこんもりとした闇の後ろからか、音がした。何かが動いて葉擦れした音である。このあたりでは狸もいたちも珍しくはないが、なぜかぞっとしたものを感じた。がさり、もう一度音がする。熊や猪も頭に浮かんで腰を浮かした。  何かが月や家からもれる光を受けて光っている。目、ではない。もっと金属的な……などと考えているうちにその男は椿の前に出てきてじっとこちらを見つめていた。手に持っているのは、おそらく鎌である。中年のように見えるが、もしかしたらもっと若いのかもしれない。  男は鎌をぶらりと手にさげたまま、お金を、もってきてください、と妙に礼儀正しく告げた。声は弱弱しいものだったが、その顔は見たことのないほどの悲壮感と狂気と呼べばいいのか、ギラギラとした何かが浮かんでいて、私はとっさに言う通りにしたほうがいいだろうと、財布をとろうと振り返った。  そこにはここ二三日姿を隠していたあいつがいた。あいつはがさがさと私の前に出ると男と向かい合った。男もすぐにあいつに気がつき、少しハッとした様子だった。どれくらいの時間だったのか、男と私とあいつと、なぜか三人とも動けずに三すくみのように固まって見つめあっていた。そして最初に再び動き始めたのはあいつだった。あいつは縁側をゆっくりと進み、その下の石段に降りて、男に近づいていく。私もその間に逃げればよかったのだろうが、その時は逃げることもせずにただじっと成り行きを見守っていた。  あいつは男の目の前まで来ると、ゆっくりと手をあげて、むんずと鎌を持つ男の手首を握った。男は慌てて手を離したようで、鈍い音を立てて鎌は地面に落ちた。それを見計らったようにあいつは男の腕をひねり上げて、地面に押し倒し、その上にまたがった。あいつがこっちを見たので、私はやっと震える指で110を押した。  警察が来て強盗の男を逮捕し、私たちに事情聴取をした。私たちの関係を聞かれて、苦し紛れにルームシェア相手であると言った。少なくとも嘘ではない。やっと警察が引き上げていったときには、私は興奮が冷めてきてぐったりと居間に座り込んだ。その目の前にがさがさとアシダカグモが通っていく。 「お前の育ててるそのクモより、やっぱり俺のほうが役に立つだろう?」 「別に育ててるわけじゃないのよ。勝手に居座ってるんでしょ。あんたも、クモも」  うちには、一匹のいかついアシダカグモと、正体の分からぬ男がいる。決して育てているわけではない。
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