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1、回顧
アパートの隣の部屋に住むあの人との関係は、顔を合わせたら挨拶をする程度のものでした。
男性ということと、表札に書かれていた芝原という名字くらいしか知りませんし、なんの仕事をしているのか家族がいるのかも分かりません。年齢は、多分お母さんと同じくらいだと思います。分かるのはそれくらいです。それでもあの人のことを印象深く覚えているのは、恐らくあのベランダのせいでしょう。
そのベランダには花がありました。それも植木鉢の一つや二つではありません。アパート一階の小さなベランダに、お花屋さんを嵌め込んでしまったかのように色取り取りの花で溢れ返っていました。大きい花や小振りな花、赤白ピンク……名前は分かりませんがどれも誇らしそうに咲いていて、風が吹くとほんのり甘い香りを振り撒くのです。
ありふれた田舎の片隅には似合わない、綺麗なベランダでした。近所の人達も目を奪われていて、立ち話も「白い花が咲く季節ね」とか「良い香りがするって言ったら一本分けてもらったの」とか、芝原さんが引っ越してくる前とは全然違う、ちょっとお上品なものになりました。近所がとても明るくなっていたと思います。
芝原さん自身も、上品という言葉が合うくらい穏やかで優しい人でした。前に、ベランダに侵入しようとしていた小さな男の子が居たのですが、芝原さんは怒りもせずに薔薇の棘の危険性について説明していました。その後、棘を落とした薔薇を男の子にプレゼントする芝原さんの姿は、今でもはっきりと思い出せます。こんな人が父親だったらいいのになって思っていました。
……最初におかしいなと思ったのは、近所にある祠でした。いつも綺麗に掃除をされていて花が供えてあった祠が、いつの間にか汚れていて枯れた花がそのままになっていたのです。季節は冬だったので、私は寒いからサボっちゃったのかなとしか考えませんでした。
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