2. 花と緑と弾丸と

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 勢いに任せて駆けだした麗良は、しばらく道なりに走り続けた。道行く人たちが傍を駆け抜けて行く麗良を驚いた顔で見ていることも気にならなかった。頭の中は混乱し、胸中には煮え切らない想いが渦巻いている。 (あんなこと、言われなくてもわかってる)  青葉が麗良のことを何とも思っていないことも、麗良が青葉をどう想っているのかも、全部わかっていて考えないようにしていた。  青葉は優しい。父親のいない可哀想な子供を心配して気にかけてくれているだけだ。  それをラムファに言い当てられて、麗良は、自分の中に沸き上がる感情をどう扱ってよいのかわからない。 (どうしようもないじゃない。だって、敵う筈ない)  麗良の脳裏に、スズランを手に嬉しそうに微笑む胡蝶の白い顔が浮かんだ。まるで蘭の花のような美しさを持つ胡蝶は、自分と血の繋がりがあるとは思えないほど遠い存在で、麗良は、常に憧憬とも嫉妬ともいえる複雑な気持ちを抱いている。  青葉が花を贈るのは、いつも母にだけ。そのことに気付いた時、麗良の中で何かが音もなく失われた。名も知らない花の種は、芽吹くことを許されず、土から顔を出す前に摘まれてしまった。  今更、何の花だったかなんて、知っても無意味なのだ。  その時、小さな子供の泣き声が聞こえてきて、麗良は我に返った。いつの間にか周囲に人の姿はなく、針葉樹の植えられた道を麗良は、一人で歩いていた。  この辺りは、鬱蒼とした樹林しか見られず、目立つ花も咲いていないので、人が来ることは滅多にない。道の先には、小さな東屋があり、どうやら泣き声はそちらから聞こえてくるようだ。  麗良が東屋の中を覗くと、四、五歳くらいの女の子が膝を抱えて泣いている。周囲に人の姿は見えず、一人でいるところを見ると、どうやら迷子のようだ。  麗良が優しく声をかけると、人がいたことに安心したのか、ひと際大きな声で泣き出してしまった。仕方がないので隣に腰をかけ、女の子が落ち着くのを待つことにした。  東屋の中は、ひんやりとして涼しく、走って来たせいで火照った肌に心地良い。柔らかな風が緑の香りを運んできて、麗良は大きく息を吸いこんだ。 「大丈夫、大丈夫だよ。  お姉ちゃんが一緒に探してあげるからね」  何度もそう言いながら背中をさすってやると、次第に落ち着きを取り戻した様子で女の子が頷く。  お父さん、と何度も嗚咽を堪えながら呟く女の子が可哀想で、麗良は、自分のことのように胸が痛んだ。  その時ふと、妙な既視感を覚えた。脳裏に、一人の女の子の姿が浮かび上がる。その子も、今目の前にいる女の子と同じように両親の名を呼びながら泣いていた。  記憶のしっぽを掴むと、それは意外なほど呆気なく紐解くことができた。今まで忘れていたのが不思議なくらい、麗良の脳裏に鮮明な姿で蘇る。  あれは、麗良が小学校低学年頃のことだ。その日は、百貨店で開催される花展に青葉が初めて出瓶すると言うので、自分も連れて行って欲しいと駄々をこね、青葉を困らせたのを覚えている。  良之と青葉は、出瓶の準備やら関係者たちの挨拶周りなどで忙しく、まだ幼い麗良を見ていることができないという理由で麗良を遠ざけようとしたが、本当の理由が麗良の母、胡蝶にあることをまだ幼い麗良は知らなかった。  それ故、良之と青葉が家を出た後で、こっそり依子に無理を言って連れて行ってもらったのだ。その百貨店には、前にも何度か訪れたことがあったので、勝手知ったる我が家の如く、麗良は、花展のある場所を一直線に目指した。依子が後を着いて来られない程早く会場へと着いた麗良は、そこに良之と青葉の姿を見つけて、驚かせようと笑顔で駆け寄った。  麗良を見とめた祖父は、驚くには驚いたが、その表情からは、何かまずいものを見られてしまった時のような恐れに似た感情が現れていた。一緒にいた見知らぬ男性が麗良を見て、お孫さんですか、と聞くのを、良之は小声で言葉を濁すように、親戚の子供だと答えた。  何故、良之がそのように答えたのか、その時の麗良には分からなかったが、麗良が何か言おうとする前に、青葉が麗良を隠すようにその場を離れたので、結局理由は聞けないままとなった。  青葉にバックヤードへと連れて行かれながら、そう言えば、最近見ないですが、お嬢さんの胡蝶さんはどうしてますか……と話している声が後ろから聞こえてきた。  青葉とバックヤードで待っていると、すぐに良之が現れた。麗良が口を開くよりも先に、良之は怖い顔で冷たく言い放った。 『ここへは来るなと言った筈だ。今すぐ帰りなさい』  〝どうして〟も、〝ごめんなさい〟も言う暇を与えず、良之は、依子へ連絡をして迎えに来させろと青葉に言うと、そのまますぐに会場へと戻ろうとした。  麗良の中で、自分の存在を完全に無視した扱いに憤りと悲しさが相まって、胸が苦しくなった。思わず、青葉が依子へ連絡をしようと目を離した隙に、その場を逃げ出した。  どこをどう通ったのかは覚えていない。ただ気が付くと、百貨店の迷子センターにいた。おそらく、店員に見つかって連れて来られたのだろう。  そこには、他にも何人か迷子となった子供たちがいて、店内放送を聞いた親たちが自分を迎えに来るのを待っていた。  麗良と同じ年くらいの子からまだ幼い子や、年上の男の子もいた。年上の男の子は、どこか飄々と慣れた様子で、部屋に用意されている漫画を読んでいた。  まだ幼い子供たちは、自分の置かれた立場が分かっていないようで、与えられたおもちゃで楽しそうに遊んでいる。  ただ、一人だけ部屋の隅っこで寂しそうに膝を抱えて泣いている女の子がいた。麗良より一つか二つ下くらいだろうか。嗚咽を堪えながら、両親の名を呼んでいる。  麗良は、自分のことよりも、その子のことが気になって話しかけた。 『大丈夫、大丈夫だよ』  よく胡蝶が自分にやってくれていたのを真似して、女の子を慰めた。  しばらくして、女の子は、迎えに来た母親と父親に連れられて笑顔で帰って行った。麗良に小さく手を振って。  女の子が帰ってしまうと、麗良は、急に独りぼっちになった気がした。  そして、誰が自分を迎えに来てくれるだろうと胸をどきどきさせながら待った。他の子供たちは、父親か母親が半ば泣きながら、怒りながらも彼らを迎えに現れて一緒に帰って行く。  帰ろうと思えば、花展の会場まで麗良一人でも行くことはできた。  でも、敢えてそれをしなかったのは、自分から飛び出したという小さなプライドと、心配してもらいたいという幼い甘える心が麗良にあったからだ。  しかし結局、麗良を迎えに来たのは、依子だった。もちろん、依子は麗良のことを我が子のように可愛がってくれるし、心配もしてくれる。麗良も依子のことは大好きだ。  それでも、あの時の期待を裏切られたような、空虚な気持ちは未だに覚えている。  私は、あの時、本当は誰に迎えに来て欲しかったのだろう――。
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