1. 父親は妖精王?!

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 調子が良さそうに見えたマヤだったが、話をしている内に疲れが見えてきたので、麗良は、ゆっくり休むよう言い聞かすと、早々に帰路へとついた。  昔は、一日中一緒に遊んでいたものだったが、最近では、マヤと過ごす時間が少なくなっていることに、麗良は、一抹の寂しさを感じていた。  学校の終わりには、マヤの家へ様子を見に行くのが習慣になってはいたが、それでも試験期間中や家の用事などで行けない日も少なくはなく、否応にも月日の流れを感じずにはいられないのだった。  空を見上げると、まだ陽は傾きかけたばかりで明るい。 帰ったら何をしよう、と考えながら麗良が玄関の扉を開けると、松葉色の和服を着た老人が固い表情で出迎えてくれた。  麗良の祖父、花園 良之(よしゆき)だ。 「今帰ったのか」  その責めるような口調に、麗良が何も言わずに家を出たことを叱られているのかと思い、首をすくめた。学校が休校になったことを依子から聞いたのだろう。 「ごめんなさい。  一度、家には帰ったのだけど、マヤの家へお見舞いに行ってたの。  声を掛けようとしたんだけど、おじい様は留守のようだったから……」  幼い頃には、じいじ、と呼んで親しんでいたが、分別がつくようになってからは、周りに合わせて呼称を改めるようになった。それが殊更祖父と孫の関係に距離を作っていることに麗良は気付いていない。  良之は、目を細めると、帰ったのならいい、とだけ言い残し、仕事部屋へと引っ込んでしまった。  入れ違いに、奥から依子が笑顔で出迎えてくれた。麗良の表情と去って行った良之を見て事情を察し、こっそり麗良に耳打ちする。 「とってもご心配なさってたんですよ。  迎えに行った方がいいんじゃないかと仰って。  私があとで行きますからと言っても聞かなくて……でもまぁ、お嬢様のお顔を見て安心なさったんでしょう」  麗良は、依子に悪いと思いつつも、自分を心配する祖父の姿が想像できず、苦笑した。  良之は、元々無口な性格で、祖母が亡くなってからは更に会話することも減ってしまった。孫である麗良ですら何を考えているか解らないことが多いのだが、依子にしてみれば、とても〝わかりやすい人〟らしい。  麗良は、二階にある自分の部屋に鞄を置き、制服から普段着に着替えると、居間の縁側から庭へと出た。小石を敷き詰めた露地を奥へと進んで行くと、そこには、まるで植物たちによって隔離されたかのような広い庭園が広がっている。  良之が庭師を雇ってまで手入れをしている日本庭園で、池泉庭園(ちせんていえん)と言うらしいが、麗良はあまり庭の様式には興味がないのでよく知らない。  中央に座す池の周りには、白い花を咲かせたエゴノキやハナミズキ、シャクナゲやサツキが薄紅色の花を咲かせ、黄色い花を咲けたヤマブキ、見頃を終えたユキヤナギなどが植えられている。もう一月後には、ヒメシャラやアジサイなどが花を咲かす。  麗良が好きなムラサキシキブも、薄紫色の小花が散房花序をつくって咲き、秋には可愛い紫色の実をつける。  他にも、サルスベリやキンモクセイ、紅葉、ハクモクレン、ウメや桜……四季折々に見頃を迎える植物が植えられており、そこには、常に見る人の目を楽しませたいという良之の想いが込められている。  麗良は、庭に敷かれた飛び石をひとつひとつ踏みしめながら深く息を吸う。豊かな土の匂い、水々しい樹木の匂い、甘く香しい花の匂い……これらの香りが麗良の心と身体を満たし、浄化していく。太陽のエネルギーを吸収した彼らから、こうして元気をもらうのが、麗良の日課であった。 「麗良、今日は早いのね」  川のせせらぎのような心地よい声が麗良の耳に届いた。  縁側に和服姿の女性が腰掛けている。淡い白地に薄紅色のシャクナゲがよく映えて見える。  麗良の母、花園 胡蝶(こちょう)だ。  麗良は、作り慣れた笑顔で答えた。 「ただいま、。  今日は調子がよさそうね。顔色がいい」 「そうね、こうやって毎日お庭でひなたぼっこしているからかしら。  最近、天気が良くて気持ちいいわ」  一点の曇りもなく無邪気にほほ笑む胡蝶を見て、麗良は、良純と依子が、今日学校で起きた事件を彼女に伝えていないことを知った。  彼女の負担を考えると、黙っていてくれるのが正しいのだと頭では判っている。  麗良は、二人の気遣いに感謝しつつも、一抹の寂しさを胸に押し込めて、胡蝶の隣に腰を下ろした。 「あれ、そのスズランどうしたの」  胡蝶の手には、小さな白い鈴のような花がひと房握られていた。庭には、たくさんの種類の花も植えられているが、スズランが咲いているのを麗良は見たことがない。 「青葉くんがくれたの。  花材にするのがもったいなかったんですって」  青葉らしい、と言って二人は笑い合った。  青葉は、良之の唯一の弟子だ。部屋から出ることのできない胡蝶を気遣い、年の離れた麗良のことも妹のように接してくれる。麗良が小学校へ上がる頃から、この家の離れに住み始め、今では家族の一員のようなものだ。  麗良は、胡蝶の笑顔を、眩しいものでも見るような目で見つめた。凛とした輪郭に整った目鼻立ち、抜けるように白い肌には、ほんのり赤みがさしていて、黒い髪には白髪ひとつ見えない。  娘の目から見ても、高校生の子供を持つ母親とは思えないほど若く見える。  胡蝶は、自分が麗良を産んだことを覚えていない。心を病んでいる所為で、麗良の父親が誰なのかもわからないのだ。麗良のことは、遠い親戚の子供ということにしてあるので、麗良も胡蝶のことを〝母〟と呼んだことすらない。  生まれた時からそうなのだから麗良も特段不思議に思ったことはなかったが、成長するにつれて、他の同級生たちと比べて自分の家庭は変わっている、ということには気付いている。  そんな胡蝶は、決して自分の部屋から出ることなく、いつも庭を見ていた。 庭を見て、何かを、誰かを待っているようにも思えた。  しかし、麗良がそれについて胡蝶に訊ねたことはない。彼女がこうして笑っていてくれさえいればいい。麗良にそれ以上望むものは何もない。  麗良の脳裏に、ふと幼い頃の記憶が蘇った。  華道家である祖父は、麗良が五歳にも満たない頃から華道を教え始めた。綺麗な花を生けて形にするのは好きだったが、幼い麗良には正座が辛くて、長い間じっとしていられないものだから、よく祖父に叱られた。その度に麗良は、泣く泣く庭へと逃げ出した。  庭には、たくさんの樹木と花々が溢れていて、天気の良い日は、緑から元気をもらえるように感じた。胡蝶は、いつも縁側に腰掛け、庭を眺めていた。  そして、泣いている麗良を見つけると、自分の膝の上で慰めるのだ。 「お父さんは、麗良のことがとっても大事なのよ」  胡蝶は、良之のことを〝父〟と呼ぶ。  そこで今度は麗良が自分の父親について尋ねると、胡蝶は決まって、何かを思い出そうとするように遠くを見つめ、困ったように笑った。それから麗良に視線を戻すと、今度は全く知らない子を見るような目で見つめるのだ。あら、この子は誰の子だったかしら、と言うように。  麗良が彼女の名を呼ぶと、はっと魔法が解けたかのようにいつもの笑顔に戻って、麗良の名を呼び、優しく頭を撫でてくれた。そんな彼女の顔を見るのが悲しくて、麗良は、いつしか父親の話を聞くことはなくなった。  私に父親はいない。麗良は、そう思うことにした。
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