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振り返った千歳の視線の先。閉ざされた拝殿の入口はしっかりと閂がかけられている。
その入口にはめ込まれたガラス、その向こうにそれはいた。
埃で曇りきったガラスの向こう。端々が蜘蛛の巣のように糸を引いた窓ガラスの向こうにぼんやり浮かび上がった人の輪郭。
だが、それは人ではない。
真っ黒な黒い影がゆらりと小さく揺れながら、じわりと曇った窓ガラスに顔を近づけてきた。
「っ……!!」
声を上げそうになり自分で口を押さえつける千歳。悲鳴が指の間から漏れ出そうになり、血の気が引いて四肢の指先から寒気が侵食してくる。
拝殿の中を除くように窓ガラスにぴったり顔を近づけ、窓に映る影がハッキリしてくる。
目も鼻も口も無い、丸い頭が曇ったガラスに浮かび上がった。
目がないのにも関わらず、その仕草から明らかに拝殿の中を探っているように見えた。
「はっ……はっ……はっ……!」
薄い木の板の向こうの悪意ある存在がいつ侵入してくるか分からない恐怖。
千歳は息が乱れ、震えが止まらない。
拝殿を覗き込もうと顔を寄せる悪霊はそのまま動かない。
するとギシギシという木が軋む音と共に拝殿全体が揺れ始めた。
恐怖のあまり口を押さえながらへたり込む千歳。
「千歳……!」
セツは声を殺しながら千歳に耳打ちしながら抱きかかえた。
小刻みに揺れる拝殿、揺れる度に埃や塵が天井から舞い落ちてくる。
何処かでベキリッという嫌な音と共に木片が床に落ちてくると、床の古くなって腐った部分が砕けて穴を開ける。
千歳を抱きながらセツは悪霊を睨みつける。
「くっ……ここで千歳が死んだらお前らと同じになるだけだぞ」
千歳は恐怖しながらも周りを視線だけ這わせて周囲を見渡す。そしてさらなる恐怖に目を見開いた。
拝殿の左右の窓にも黒い影が浮かび上がっていた。
何体もの悪霊が神社を取り囲んでいる。
いくつもの悪霊が重なって窓を覆い、拝殿の中に影が落ちる。
多くの影が拝殿を取り囲んでいる。だが入ってくる様子はない。
まるで千歳が怖がっているのを楽しんで嬲っているかのようだ。
パニックになりながらも、残った理性で声をあげずにあちこち視線を飛ばしてこの場から逃れる方法を模索する。
だがここはただの神社の小さく狭い拝殿だ。何処にも隠れられるような場所もない。
僅かな数の太い支柱、御神体を奉る祭壇、燭台、千歳にはよくわからない水墨画の描かれた古びた掛け軸、それだけだ。
千歳が絶望感で打ちひしがれそうになった。その時だった。
――ガラガラガラッ!!
大きな衝撃。舞い上がる埃で視界がぼやけ、千歳は慌てて口と一緒に鼻も手で覆った。
薄目で音のした方を見る千歳。もうもうとあがる塵の向こうに見えた物に驚きセツの袖を引っ張った。
「どうした?」
引っ張られる袖に気づいてセツが耳打ちする。千歳は指をさした。
脆くなった梁が折れて落下し、祭壇に直撃しており、無惨に砕け散った祭壇の下に明らかに人工的に作られた地下へ続く階段がぽっかり口を開けていた。
バキバキに折れた梁や祭壇の断面が階段を囲い、その様はまるで大きな化け物の口のようだった。
あそこから逃げよう。そう言いたそうに階段を指さしながらセツの瞳を見つめる千歳はこくんと一度頷いてみせる。セツは悩んだしかし――。
――ドンッ!
――ドンッ!
閂の掛けられた拝殿の扉が激しく叩かれた。そしてミシミシと嫌な音を立て始めている。
セツに逡巡している時間は無かった。
千歳を抱き直し、抱き上げた。そして、まるで羽が生えたかのように軽やかに走ると地下へ続く階段へと向かい、駆け下りた。
*****
階段を駆け下りてしばらくすると土の地面を踏んだ。まっすぐ伸びる洞窟を前にして、セツは千歳を下ろした。
「大丈夫かい? 千歳」
「うん、あ、ありがとう」
千歳はしっかりと地面に立つと、セツの足を見た。先程よりも絆創膏から血が滲み、今にも剥がれそうになっていた。
不安そうにセツの顔を見る。セツは微笑んでいた。
「必死だったから、痛さを忘れて走って傷が少し開いちゃっただけだよ。気にしないで」
「でも……」
「大丈夫だよ。ほら」
心配する千歳の前でセツはその辺に落ちていた木の棒を拾い上げた。その棒は先端に二股の錆びた鉄の器具がついていた。刺股だ。セツが刺股を持ち上げると経年劣化のせいか簡単に乾いた音を立てながら金属部分が折れて木の棒だけが残った。
「これを杖にすれば十分歩ける」
「うん、わかった。でもここ……暗いよ。どうしよう」
真っ暗な空間で千歳は手探りで壁に手をつくと、冷たくざらついた岩壁の感触に目を細めた。
それを見てセツは何か気づいたように瞬きすると周囲を見渡して一人で歩く。
離れていくセツの足音に千歳は思わず声を上げた。
「ま、待って……!」
「遠くに行ったりしないよ。僕は夜目が利くんだ」
そう言いながらセツは隅に置かれた木の棚を探る。朽ちた棚には瓶や燭台、蝋燭などがいくつか置かれており、引き出しをいくつか引っ張るとそこから火打ち石と火打鎌が出てきた。
セツは杖を小脇に挟んで火打ち石と火打鎌を器用に使って手持ち燭台に火を灯すと通路に温かくも頼りない明かりが広がった。
「千歳、持てる? 僕は君の後ろをついていくよ」
「う、うん! お姉さんに任せて!」
恐怖心を殺すように、鼓舞するように千歳は自分をお姉さんと口にして言い聞かせる。
私はお姉さんなんだ。セツの前でもうみっともない格好は見せられない。
両手をギュッと握って気合を入れ、深呼吸する。そして手渡された燭台を受け取った。
暗い暗い洞窟の向こうから微かに風を感じる。獣の呼吸のような風の音に千歳は頬を強張らせながら、ゆっくりと、慎重に歩きはじめた。
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