人でなし

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彼もまた外道でした。 ある晩、旦那様の部屋に呼び出されました。破落戸と揉めて喧嘩になったそうで上半身を擦過傷や打撲による痣で彩っておりました。痛々しい御姿に普通の婦女子なら視線を逸らすのかもしれません。しかし私は赤く腫脹した部分と青紫色をした皮下出血の素敵な対比から目を離せませんでした。薄皮一枚隔てた向こうに苦痛を内包しているのだと明確に主張する肉体を、観察すればする程に直に触れてみたいなんて「触るか?」察したように言われ顔を上げてすぐ気付きました。観られていたのは私の方なのです。焦りと僅かな苛立ちを覚えながらも平静を装って「よろしいのですか?」と聞き返しました。読めない微笑を貼り付けて頷いた彼に私はそっと近付くと敢えて口元の傷を指先でなぞります。圧を加えたら切れた唇から微量だけ血が溢れ少し痛そうにした男の顔を眺めて一寸ばかり愉悦を感じてしまいました。 「生傷を見るのが好きなのだろうと予想していたが、もしや人が痛がる様子を眺めるのが愉快なのか?」 表に出てしまっていたのか、互いの息がかかるような至近距離では誤魔化しようもないでしょう。社会的には夫婦の関係ですから旦那様に対して偽りは許されません。その場しのぎに嘘を吐く罪悪感はきっと棘のように私の臆病な心を刺すでしょう。低い声による質問が嫌悪でも侮蔑でもなく面白がるような響きをしているのを不快に感じながらも私は素直に答えました。 「いつも強がっている旦那様が弱った無様(ところ)を曝け出してくださるのが嬉しいのです。普段は隙のない振る舞いのせいで人間味(温かみ)を感じられませんが、今の貴方はとても痛々しくて可哀想(可愛)らしく見えます」 部分的に言い換えてみても侮辱するような物言いになった気がしますが憤慨されても構わないと思っていました。核心は明かさずとも私は正しく真意の一部を述べたのですから悪くはない筈ですし、嘘吐きと罰せられるよりは不敬と鞭打たれる方がマシというものです。旦那様は驚きとも呆れとも照れたようにも見える複雑な顔をしておりましたが私の視線を察すると背を向けました。矢張り気に障ったのかと思いきや寝台を指差し「座って話そうか」と促すのです。夫にとって自室は寝るだけの部屋なので椅子などありません。手当をする為に仕方なく彼の隣に腰掛けていたものですが、今宵はなんだか纏う雰囲気が怪しげで近寄り難いものがありました。 「警戒しなくていい。許可なしに手は出さないよ」 「性行為(そういうこと)はしない誓約ですものね」 「君の合意があれば話は変わるのだが、どうかな?夫婦らしい色事(こと)をする気はないか?」 紳士(真摯)ぶった眼差しと甘い笑みが鼻につきました。女人を抱き慣れている旦那様が今更つまらない生娘一人求めるわけないでしょうに。 「婚約時に女遊びは御自由にと申しましたけど、私を女性(そこ)に含まないでください。反吐が出そうです」 自分がどんな顔をしているのか考えもせず歩を進め、彼の隣に座ってその体を障るように触りました。腹部の青黒い痣を荒っぽく撫で、赤く腫れた頬を強めに摩れば自然と言葉が溢れました。「そも現状こんな体たらくで何をすると?ほら傷が痛むでしょう?可愛(か弱)い御方。熱も宿しておりますね。まるで幼気な子供みたいな体温ですこと。お辛いのでしたら安静になさいませ」貴方様が簡単に苦痛の色を滲ませるから歯止めが効かなくなったのです。 「……ん、くっ」本当に辛そうな御声が聞こえて私は正気に戻り慌てて彼の正面に跪きました。 「申し訳ございません!大変失礼致しました。大丈夫ですか旦那様?」気遣うように言いながら俯くその顔を下から覗き込むとやや顔を朱に染めた男は曖昧に頷きました。全く私としたら大人しく振舞っていたのに何故こうも暴走してしまったのでしょう。気ままな飾り物生活を続けていたせいで自制心の緩みが生じていたのでしょうか?いいえ、実はもう答えは理解していました。 「具合を見せてください」 「いや、もう落ち着いた。心配は要らないから今日はもう自室に戻りなさい」 自分と同様に作り笑いの仮面を常備している彼が、私とは違って苦痛を用意に表せることに嫉妬していたのです。そんな男に女性(格下)として欲情(見下ろ)される屈辱といったら。安易に傷を晒せる甘ったれが、痛みを訴えられる弱い奴が、服の下にあるのが処女(無傷)だと信じ求めてくる阿保らしさ。ささやかな意趣返しくらいは許されるでしょう? 「創傷(そちら)ではなく勃起(こちら)の方です」 私は人差し指を独り盛り上がる股間へと突き付けます。 「何故こんな事になっているのか事情をお聞かせくださいませ」隠そうと不自然に動くからバレるのですよ。 「これは、何かの間違いで」「もしや痛くされることが快感なのですか?」「それは違う」 なんて無為な言語の応酬には早々に飽きたので私はすっと立ち上がり片足を旦那様の股の合間に下ろしました。きちんと加減して優しく踏み躙るように足裏で嬲ります。これは暴力の内に入るでしょうか?按摩とでもしておきますか?相手は悦んでいるので善しとしましょう。 「旦那様は他所の女の子達にもこうして虐められて昂っていたのですか?苛まれて喜ぶなんて変態ですね」 過激なパフォーマンスを必要としたのは羞恥を与えることで懲りて頂くためです。周囲に余計なことを話されるのを阻止し私に対しても二度と劣情を抱くことのないようお願いする心算でした。ですから好きで行為しているのではありません。私は全然楽しくも気持ち良くもないのです。「もう、いい加減に」「はい辞めます」 息も絶え絶えの御様子に少しは溜飲も下がったので足を除けました。旦那様におかれましては血が昇りっ放しの有様で衣服がはち切れんばかりです。 「後は御自分で処理してくださいね。気味の悪いモノを踏んだので私は湯浴みして身を清めるとしましょう」 「……っ、待ってくれ」 踵を返して立ち去ろうとした私の手を彼が掴みました。体勢が崩れたこの身は熱い男の肉体にぶつかり二人して寝台に転がりました。起き上がろうとして捕まって、仰向けになった私の上に半裸の旦那様。忌々しい構図です。「何するんですか」押し退けようとして逞しい胸板に触れた掌に汗と熱。異様に高過ぎる気がしました。よく観察しますと切なげな顔した旦那様は朦朧としております。それでも男らしい大きな手はまさぐるように蠢いて私の衣服を剥ごうとしてきました。抵抗するのも面倒ですしこの際見せてやった方が頭も冷えるでしょう。さっさと茶番は終わらせて怪我人を寝かしつけなければいけません。私は着物の上に羽織っていたカーディガンを自ら脱いで帯も緩めました。彷徨う彼の手を導いて着物をはだけさせます。 「貴方様は夫ですから家族です。ならば特別に明かしてあげましょう。私の醜悪な罪の証と罰の記録をどうぞ御覧ください」 継ぎ接ぎだらけの胸腹部が外気に晒されました。態と目立つようにされた縫い跡や火傷に対し施された皮膚移植の痕に埋め尽くされた体幹部はさぞかし醜く映ることでしょう。悪酔いが覚めたように彼は目を見開いておりました。 「悪趣味なパッチワークみたいでしょう?背中も見てみます?嫌ですよね。私を裸に剥いても気分を損ねるだけなので今後は触れないでくださいませ」 着物を直しながら言い捨てました。旦那様の反応は想像できますから敢えて見ませんでした。 「父には何も言わないでくださいね?性交渉無しの婚約条件はこれを見せない為でもありましたから。今夜の仕返しに傷を増やしたいのでしたら文句を付けても構いませんよ。それか今この場で罰してみます?無礼なことをした自覚はありますからお好きにどうぞ。可愛らしく痛がったり泣いたりはできませんけどね」 何も言わないから長々と一人喋りましたが不意に固く抱き締められました。度し難いことに内股に当たっている彼の股間のそれまで硬いのです。何故この場面で勃ったままなのか意味不明でした。熱に浮かされているからでしょうか?性癖が原因だとしても正気ではないのは確かです。優しげな吐息が髪にかかりました。 「痛かっただろう?よく耐えてきたな」 家という唯一の居場所にいたかったから耐えるしかなかっただけです。母を殺してしまった私は父に許されなければ存在できませんから。 「どうでもいいので離れてください」 旦那様の火照りが移って私まで茹だるような心地でした。顔は見えないけど沸騰するような熱が伝わってきます。いつの間にか彼の顔はこちらを向いていました。色んな感情が綯い交ぜになったような混沌を押し込めた表情とキスの距離で見つめ合って、私そろそろ限界でした。見透かしたような瞳を抉ってでも逃れたくなったので振り解こうと藻掻きました。「早く退かないと殺しますよ」なんて脅しても力負けして手も足も出ませんから説得力は皆無です。「君になら殺されてもいい」とか巫山戯た返しは無視。脳内まで悶々としてきて最早私ではどうしようもない事態です。「貴方が悪いんですからね」こうなる筈ではなかったのに。迂闊に煽るんじゃなかった。私は不安定に回り出した視界を遮りたくて目蓋を閉じます。堪え切れないように左手が痙攣した次の瞬間には勝手に動いて、肉を打つ音が弾けた。「そうか、君が抑圧していたのは痛みじゃなくて怒りなんだね」彼の言葉がすとんと心に落ちて、代わるように無意識の底から憤怒(悪魔)が這い上がるのを感じながら重たい体と解離しました。
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