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私は人でなしでした。
命懸けで産んでくれた母には誠に申し訳ないことです。きっと私は人の形をした肉塊に埋没した一粒の種なのです。醜く咲いて汚く散るだけの無意味で無力な存在です。この世に芽を出す前に誰か踏み躙ってくれたなら今や笑うしかない悲劇は始まらなかったでしょうに。
体感はどうにも紛い物じみていました。神経は通っており五体満足に動かせはしますが表情筋の壊れた貌は人形みたいな微笑しか作れません。赤黒い血は冷めていて自傷したところで命の尊さなんか微塵も主張してはくれません。涙は欠伸をすれば出るくらいで感情とは連動していないようです。痛みは感じるのですが他人様と比べ鈍いらしく、傍から見れば不気味なくらいに平然と見えるそうです。
物心ついた頃から変わり者でした。例えば何針か縫う怪我をした時、或いは骨が折れたり熱傷を負った際、必ずと言っていいくらい医者や看護師から「痛くないの?」と確認するように尋ねられるのです。聞けば麻酔の注射や処置に伴う侵襲に対して他の人はもっと痛そうにするのだとか。いい歳した大人や屈強な男性さえ痛がるのに貧弱な子供が表情一つ変えず耐えるのが医療従事者にも不思議だったようです。人並みとの差異を認知したものの痛がってみせる必要性が理解できなかったので改めて演じることはしませんでした。だって幾ら顔や言葉に出したところで身体的苦痛が和らぐことは有り得ません。精神的苦痛なら尚のこと。根本的な解決にならず他者に余計な心労を背負わせるだけならば己の内に秘めておくのが最適解です。自分だけ抑圧することで思い患う人数を常に一人に留めておけるのですから。
良い子であるようにと私自身を設定し汚穢を避けて育ててきました。目立たない程に平凡な優等生を目指して勉学はそこそこ真面目に頑張りました。有り触れた善人を気取って素行は温厚に、誰に対しても差別なく小さな親切を心掛けておりました。「怒ったことあるの?」なんて訊かれる程には穏やかな人格が完成しました。遺伝子とか養育環境とかは関係ないと思いますが周りの大人達は私を褒めるついでに父をできた人だと賞賛するのでした。別に家族を参考にしたわけではありません。小学校に入る前には平仮名とカタカナは完璧に覚えた上に簡素な漢字さえ読めていたので、後は適当に買ってもらった昔話や寓話の絵本から行動指針を学びました。即ち勧善懲悪や因果応報、罪には罰が着いて回るという自明の理。正義の味方なんて都合の良い夢幻を信じたことはありませんが、私は自分が悪者になること恐れていました。
私が考える人としての存在意義とは社会の害悪にならないことです。誰も傷付けず箱庭の片隅で息を潜めるように生きたかった。テレビ画面の向こうでは貧窮だの怨恨だの独り善がりな理由で罪を犯す人間が少なからずいるみたいですが、道理に背いて罪悪感を負うくらいなら死ぬべきだというのが個人的見解です。退屈な凡人ですから誰かを傷付けることで自身も損なわれることが恐ろしかったのです。いかなる場合でも暴言暴力は許されません。根本にあるのが己にとっての正義であれ悪意であれ他者に加えた危害は必ずいつか罰となって返ってくる。だって痛いものは痛いのですから。込めた意図が何であれ相手にとっては単なる不快。同族である人間を苦しめて、どうして気持ち良くなれるでしょうか?
女学校でさえ誰の目にも止まらぬよう関わりを最低限に過ごしていた私ですが、外側から一目見たくらいで興味や好意を示す酔狂な殿方も何人かおりました。しかし彼等の顔も名前も記憶にありません。勝手に募らせた恋心を多種多様な言動で押し付けてくる存在を、私は尽く厭悪して遠ざけたからです。選べなかった父親は別としてそれ以外の男性には近寄ることも針鼠の如くままならないのでした。大学に進む頃には多少誤魔化し方も覚えましたが下心を孕む異性を前にした時の不愉快は隠す程に増していくばかり。何故あの方々は容易く発情し私の服の下にある醜い肌を覗きたがるのでしょう?彼等はもう現世には居ないので確かめようもないことですが。
虚講じみた数奇もあるもので、そんな男嫌いな人間が結婚することになりました。成人した私が父に望まれた縁談は単なる家同士の御都合主義での御付き合い。御相手の御実家は訳アリのようで籍を入れるだけで十分だと、余計な干渉は互いにしなくても構わないと約束されました。私に拒否権はありませんが妻という肩書きを得ることで他所の男性を拒絶し易くなるなら悪くないとも考えました。要するに偽装結婚です。さながら隠れ蓑として纏った白無垢、厄除じみた結婚指輪。筆舌を尽くす必要のない旦那様とは同居しているのに部屋が別々です。仕事の関係から不規則となるので食事も共にしません。偶に会っても話なんて挨拶程度のささやかなもので貼り付けた愛想笑いは鏡写し。奇妙な新婚生活は私が願った結果ではありませんが割と心地好い距離感でありました。家事は家政婦任せでしたし子作りも求められませんでしたから、図書館で働きながら平和な日々を繰り返していました。
崩壊は突然でした。
玄関前であの人が襲われるからいけないのです。一体どんな悪事に手を染めたらこんな捻くれた因果に行き着くのでしょう。場所が自宅の敷地内でなかったら、時間が私の帰宅と被らなかったら、お互いもう少し真面な結末を迎えられたかもしれません。黄昏時の曖昧な空の下、鮮紅色と苦痛に染め上げられた夫の顔を私は初めて真正面から見つめました。魅入られたようにまじまじと遠慮なく。恥ずかしながら非常時だというのに命の危機など頭にありませんでした。下手人は視界の端で彼の部下と格闘していましたが、そちらの騒動は全く認識していませんでした。胸や腕に傷を負って流血した彼の姿を目の当たりにした瞬間ずうっと無意識の底に沈めてきた衝動が脳内を満たしていたのですから。私は緊迫した雰囲気に躊躇なく踏み込んで、血に濡れるのも厭わず彼に抱き着きました。別に伴侶の身を庇う狙いもなければ命を案じたわけでもありません。常に澄まし顔した歳上の男が苦悶に表情を歪ませる有様を間近で観察したかったのです。「危ないから離れなさい」なんて厳しく命じられても聞く耳持たず「貴方様の苦悶を見ながら死ねれば本望です」と歪な欲に塗れた戯言を囁き返しました。幸いかは判断に悩むところですが旦那様の命に別状はありませんでした。ホッとしたのも束の間、何を勘違いされたのか私はその日から飾り物の花嫁ではなくなってしまいました。
翌々日から妻として手当をするよう彼に命じられた私は、暫く煩悶の夜を過ごす羽目になりました。男性の裸身など見慣れていませんし着物を脱いだ彼の鍛えられた筋肉質な体を初めは直視できませんでした。努めて創部だけに注意しながら消毒後に軟膏を塗布し真っ白な包帯を巻き付けていく作業を黙々とこなします。敢えて痛くする気は勿論ありませんが、処置の最中は震えを抑えようと手に無駄な力が入りました。だって薬液が染みたり包帯が擦れたりする度に彼は敏感に反応するのですから。蠢く表情筋や漏れでる声が腹の奥底に熱と疼きを与えて、私は頬を仄かに赤らめながら責め苦にも似た一時を密かに愉しみました。
「人形みたいでつまらないと思っていたが最近の君からは温度を感じる」なんて大分癒えた頃に旦那様がぽつりと呟き処置後の片付けをしていた私の手首を握りました。「今夜は冷えそうだ。一緒に寝てはくれないか?」やや遠回しとはいえ初めて同衾に誘われたのですが私は初心に受け取った振りをして「寒いのでしたら掛け布団を追加でお持ちします」などと言い捨て逃げました。
快方に向かう程、彼に対する関心は薄れていきました。完治する頃には素っ気なく戻った妻の様子に何を感じたのでしょう。私もですが旦那様も簡単に情念を表に出す人ではありません。互いに内心は測り知れず距離感だけは保ったままで傷を看る必要がなくなると再び絶妙にすれ違う生活が始まりました。今までは不干渉こそが充実だと錯覚できたのに触れ合う快楽を識ると物足りない気がしました。あの人がまた怪我してくれたら、なんて悍ましい妄想が生じた夜はとても寝付けやしませんでした。
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