3. 素晴らしき世界に

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【5】  走った。色とりどりに飾られた校舎内、いつもより人で溢れかえっている。そんな人ごみの中をかき分けて走る。  時々、「ねぇ、アレ、はるとうたたねのボーカルの子じゃない?!」なんて声が耳に入ったりしてきても、足を止めるわけにはいかなかった。  体育館から校門まで一番わかりやすくて近いルート。まだ学校の中にいるなら、この道のどこかにいるはず。  走って、探して、目をこらして、───見覚えのある背中を、見つけた。 「───お母さん!」  久しぶりに呼んだその単語。驚くように振り向いた顔。名前を呼んだわけじゃないのに。私の声がわかったんだ。 「っ……はぁ、っは、……話を、しよう?」  全力で走ってきたせいで息が切れる。数メートル手前で足を止めて、膝に手をつく。ぎゅっと目をつぶった。  何を言われたって構わない。私は、私のできることをする。自分の意思で、行動するんだ。 「……そこにいたら通行人の邪魔になるわよ、こっちへいらっしゃい」  お母さんは、そう言って私を手招いた。 ◇ 「座りなさい」  こんな日でも人通りの少ない校舎裏のベンチに腰かけた。途中、息が切れている私を見かねて冷たいお茶のペットボトルを買ってくれた。  それを握りしめて、お母さんの横に並ぶ。  遠くで、にがやかな文化祭の音が聞こえる。ここだけ、しんと静まりかえっている。家以外で顔を合わせることなんて何年ぶりだろう。  重たい空気に、負けたくない。 「……あのね」  少しの沈黙、息をしっかりと整えた後、口を開いたのは私だった。  言わなくちゃいけない。言いたかったこと。言えなかったこと。  ───『頑張れ』  領の言葉が浮かんできた。私の背中を押したときの優しい手のぬくもり。それを見守っていた浩平と怜の強い眼差し。  わたし、もう、一人じゃない。 「私、ずっと、1位をとることが自分の存在価値だと思ってた。そうしなきゃ、この家にいちゃいけないって、生きてちゃいけないって、そう思ってた」  言った瞬間、涙が出た。  お母さんが聞いてくれてる、私の言葉を、想いを。  どう思われるか、何を言われるか、そんなことわからないけど。  もう、黙っているだけの生活は終わりにしたい。 「お母さんやお父さんの期待を裏切りたくなくて、勉強ばかりしてた」 「……」 「受験で失敗して、プライドも、自信も、家族の期待も、全部失って、」  受験合格発表の日。自分の番号がそこになかったあの日。友だちと距離を置いたあの日。お母さんと上手く話せなくなったあの日。お母さんとお父さんが私のせいで喧嘩をはじめたあの日。  何度も、何度も何度も自分のことをせめて、泣いて、思った。『生まれてこなきゃよかった』って、何度も。 「だけど、ね。わたし、変わった。変えてくれる人たちに、出会った」  そう、今、この瞬間だってそうだ。こうやって、自分自身に向き合うきっかけをくれた。逃げ出さない勇気をくれた。 「あのバンドに入って、私、変われたの」 「……」 「お母さん、お母さんの期待通りに生きれなくて、ごめん。何度も失敗して、ごめんなさい。だけど私、もう、自分の意思で歩ける。歩いて行ける」  自分の道は、自分で決める。誰かの物じゃない。  少しの沈黙。お母さんの方は見れなかった。そこは私のまだ弱い部分だ。 「私の話も、聞いてくれるかしら」 「……うん」 「綾乃は昔から本当に素直で、何をやらせても人より器用にこなして、正直私もお父さんも誇らしかった。同時に、過度な期待もしていた」  キッパリと言われた言葉。私が、今まで演じ続けてきた自分。 「……でも、完璧なんてあるはずないのよね」  完璧を追い求めてきたけれど、結局ずっと、掴むことができなかった。 「今まで上手くいっていた分、失敗したあなたのこと、上手く励ますことが出来なかった」 「……うん、」 「期待していなかったといえば嘘になるけれど、本当はこうして、私からあなたに言葉をかけなくちゃいけなかった」 「え……」 「お父さんもお母さんも、受験に失敗してるの。上手くいかなかった過去があるからこそ、あなたには厳しくしてしまった。……本番が苦手なのは、親子そろって一緒だったね」 「おかあ、さん、」 「今まで、いろんな事、はき違えて、すれ違って、過ごしてしまっていた」  テストのことしか頭になかった。今まで、授業中も、家に帰ってからも、結果を残すことがすべてだと。  お母さんの言葉をちゃんと聞いたのは、きっとこれが初めてだ。 「あの日、部活をやりたいと、私に言ってきた時のこと、覚えてる?」  気のせいか、お母さんの声は震えていた。 「あの日のあなたの目を見たとき、思った。初めてあなたの意思を聞いた。それが本当は、たまらなくうれしかった」  顔をあげることができなかった。  あの日、私は初めてお母さんに意見した。自分の意思を伝えた。冷たくあしらわれたと思ったけれど、違った。なにもわかろうと、理解しようとしていなかった。 「綾乃、歌、最初よりずっと、上手くなったわね。お風呂や部屋で大声で歌ってること、気づいていないとでも思ってた?」  ───お母さんの涙に気付いたのは、零れ落ちたしずくが私の手に落ちたからだ。  私の目からも同じように熱いものがこぼれ落ちる。とめようとしたって無理だ。お互いずっと、素直になれなかっただけだった。  鼻の奥がつんとして、喉が痛くて、目頭が熱い。言葉を発しようとしてもうまくできない。  お母さん、わたしたちずっと、本当はこうして話をするべきだったんだね。 「今日のステージ、すごくよかった」  体が温かいものに包まれる。ずっと感じたことのなかった、ほとんど忘れかけていた、お母さんのぬくもり。私は子供のようにお母さんにすり寄る。あたたかい。ひとって、こんなにも、あたたかかったんだ。 「綾乃、素敵な仲間ができたのね、」  ひどくやさしく私の髪をなでる。その手が心なしか震えていること、気づかないフリをしよう。 お母さんの胸の中でとまらない涙を拭う。  失敗して、すべて失って、存在価値がわからなくなって、何度も生まれてこなきゃよかったと思った。同時に、こうしてまたお母さんのぬくもりに触れられる日がくればいいと願った。これは、何度も何度も頭の中で描いたシーン。 「おか、あさん、」 「こんな母親でごめんなさい。自分の娘のことも大事に出来ないなんて、親失格、ね」 「……それなら、私も、娘失格、だよ」  私の言葉に、ふふ、と笑った。お母さんが、笑った。  私たち、親子失格かもしれない。だけど、遠回りしても、わかり合えなくても、存在を認めてくれるだけでいい。  そういう関係があったっていい。 「あの子たちのところ、行くんでしょう」 「……うん」 「……夜ごはん、何がいい?」 「ハンバーグ、」 「うん、わかった」  お母さん、私のこと、わからないふりをして、ずっと本当は気にかけてくれていたんだよね。私が関わり方を見失っていたように、お母さんも同じような葛藤を抱えていたんだよね。  今ならわかるよ。今だから、わかるよ。 「───いってらっしゃい、綾乃」  久しぶりに呼ばれた自分の名前にまた涙をあふれさせながら、私は走り出した。お母さん、私まだ、伝えなきゃいけない気持ちがある。  私を変えてくれた人たちに。
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