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第一章 転校生と感染源
朝の空気の中、たぶん日本一有名な野球場を隣に控えた駅を降りて、真新しい制服を着た私はその校舎を見上げた。
その私の隣を、たくさんの生徒がぞろぞろと通り過ぎて校門をくぐっていく。
高校一年の九月の終わりの転校生っていうのは、少し珍しいかもしれない。でも、気にするほどのことじゃない。たぶん。
私は大きく息を吸い込んで歩き出し、高校の敷地に入った。
緊張で胸の動悸が少し早くなる。中高一貫校だっていうし――寮まであるらしい――、外からきた人には入り込みにくかったりするんだろうか。
できれば女子高がよかったな、とはいまだに思う。
それでも、男子より女子のほうが多い高校らしいので、前の学校よりは過ごしやすいかもしれない。男の子は、ちょっと苦手だ。
最初に職員室に行くんだよね、と思いながら昇降口に向かっていると、右手のほうで騒ぎが起きていた。
なんだろう、と首を巡らせる。
校舎へ向かう石敷きの道の脇に、十数人の人だかりができている。
何色かの声が聞こえてきた。
「手首、手首!」
「なにかで押さえて! どんどん血が出ちゃう!」
「大丈夫、そんなに深くないからね! 大丈夫? すぐ保健室行こうね!」
手首? 血? なんだか、穏やかじゃないな。
すると、人だかりの真ん中にいる女子の左腕から、赤い液体が地面にしたたり落ちるのが見えた。
……あれが、血? ちょっとした切り傷どころじゃない。
周囲には植え込みがあるくらいで、特別変わったところはない。校門の中なので、車も入って来られない。血が流れるほどのけがって、こんなところですることある?
そうしている間にも、地面の血だまりは少しずつ広がっていく。
血を流している女子は口をぱくぱくとさせて、ただその場に立ち尽くしていた。
友達らしい周りの生徒が、その子を支えて、保健室があるらしいほうへ引っ張っていく。
「鈍村はどこ行った!? あいつのせいだろ、これ! くそっ、頑張れよ新田、すぐ手当てしてもらうからな! 舌嚙むなよ、誰かなにか嚙ませるもの持ってないか、ハンカチでもなんでも――」
男子生徒が一人、そう叫んで周りを見回した。
その視線が、一人の女子生徒に止まる。人だかりから五メートルくらい離れたところに、彼女は一人で立っていた。
真っ黒で、ショートとセミロングの間くらいの髪。毛先はぎざぎざで、自分で切っているのかもしれない。
濃い目のくまを宿した目が少し吊り気味で、視線は、冷たく醒めているように思えた。少なくとも、けがをした女の子を見ているにしては。
それに、まだ残暑があるのに冬服で、黒い長袖の制服に黒いマフラーと手袋を着けている。この場において、彼女はひどく異質だった。
「鈍村、お前なんかいうことあんだろ! ていうか人に触んじゃねえよ、この人殺し!」
人殺し? じゃあ、この子がなにかやったの?
けれどそう言われた女子生徒は、少し奥歯を噛みしめるような様子を見せてから、静かな声で答えた。
「私に、その人のほうがぶつかってきた。そうしたら止める間もなくカッターナイフを取り出して、自分で手首を切ったの」
「だから、お前がいなきゃそんなことになってねえんだろ! せめて新田保健室連れてくの手伝うとかさあ!」
そう叫んだ男子生徒に、横にいた別の女子が言う。
「やめてよ、あの子にこれ以上新田さん触らせたらだめだって。ていうかあたしたちも触られたら困るし。ほら、もう早く行こうよ」
男子生徒は、歯ぎしりしてから、もう一度叫んだ。
「ああ、もういいよどっか行け! 学校くんなよ、お前!」
ぎざぎさの髪の、鈍村と呼ばれた女子生徒は、くるりと方向を変えて、昇降口へ向かう。
私のすぐ横を彼女が通り過ぎた。
その時、鈍村さんが大きく私をかわして行くのが見えた。
普通に歩いていても、ぶつかったりはしないだけの空間があったのに、彼女はひどく大げさに私を避けて行った。
あたりには、登校中の生徒がたくさんいる。
その誰もが、鈍村さんから、何メートルも距離をとってこわごわと歩いていた。
出血していた女の子が運ばれて行って、校門の周りは静かになった。
なにが起きたのか分からないまま、私はひとまず、職員室へ向かった。
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