01.天使の揺籃

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 脱出手段は、最上階にある屋根のない部屋に用意されていた。  檻の中で金色の瞳が光る。灰色の鱗。強靭な顎には太い牙が密集しており、頭部には太い角が生えている。帯で顎をがっちりと固定され、四肢を頑丈そうな拘束具と鎖で縛られている。  翼竜という生き物らしい。  テレサが拘束具を外すと、翼竜は爪でテレサを引き裂こうとした。彼女は光の盾を形成すると、実力の差を思い知らせてやった。翼竜は嘘のように大人しくなる。  前々から逃亡の準備をしていたらしい。テレサは棚の奥から鞄を引っ張り出した。鞍や鐙――竜具を翼竜に手早く取りつける。その背中に乗ると、彼女はフェイヴァに手を差し出した。フェイヴァはその手を掴む。テレサはその細身に見合わぬ力で、フェイヴァを翼竜の背に引っ張り上げた。 「しっかり掴まっているのよ」  フェイヴァは小さく頷き、テレサにしがみつく。彼女が翼竜の胴を強く蹴った。皮膜が張った巨大な翼を広げ、翼竜は空に飛び上がる。  翼が力強く空気を叩き、風が刃のように肌を打つ。  フェイヴァは、眼下に広がった景色に息を呑んだ。  丘陵地帯に建設されているのは、堅牢な石城を中心とした都市だった。あの城がさきほどまでフェイヴァたちがいた、兵器開発施設なのだろう。厚い防壁に取り囲まれている。白々とした陽光に照らされ、城は陰影を濃く浮かび上がらせた。  テレサはこの国について、フェイヴァに話して聞かせてくれた。  ディーティルド帝国は、大陸で二番目の広大な国土を有していた。乾燥や寒冷とは無縁な土地であり、都市の約半分の面積を使用し行われている農業や畜産のおかげで、国民は飢えを知らない。国産の翼竜や金の交易で国は豊かだった。  しかしある日突然、帝国の統治者であるガーランド皇帝が、驚くべき布告をしたのだ。我が帝国は聖王神オリジンに選ばれた国家である。我が国こそが、世界を支配し管理するに相応しいのだと。  ディーティルド帝国は、隣国であるファンダス王国とブレイグ王国に侵攻した。優れた武器を生産し向かうところ敵なしだったニ国は、帝国が差し向けた恐るべき兵器になす術がなかった。まるで赤子の手を捻ひねるように、帝国は強国を下し支配下に置いたのだ。こうしてディーティルド帝国は、世界最大の領土と軍事力を誇る国となった。 「兵器……」  兵士たちはフェイヴァを死天使と呼んでいた。それが、ディーティルド帝国が製造した兵器の名前なのだろう。  テレサがどういうつもりでフェイヴァを生みだしたかは知らないが、フェイヴァも人の命を奪う兵器であることには変わりない。  翼竜の身体を東に向けると、テレサは強く胴を蹴りつけた。翼竜は首を前に伸ばし、翼を振るう。景色が急速に置き去りにされる速度だった。 「……私は、どうすればいいの?」  テレサの背中にしがみついたまま、フェイヴァは小さな声を落とす。掠れて頼りない自分の声は、内面からにじみだす不安を色濃く反映していた。  フェイヴァの精神を追い込むように、天使の揺籃の姿が想起された。化物の中から生まれてきた自分。なんて気持ちが悪いんだろう。 「私、こんな身体はいやだよ。生きていく自信なんて持てない……」 「あなたは、自分が揺籃から生まれたことが恐ろしいのね。あんな気味の悪い化物から生まれた自分が、人の中で生きていけるはずがない。酷いことを言われ、傷つけられるかもしれない。それが震えるほど怖い」  どうしてわかるのだろうか。フェイヴァは困惑を眼差しに込めて、テレサの背中を見た。肩越しにフェイヴァを振り返った彼女の唇は、柔らかく弧を描く。 「娘が考えていることがわからない母親なんて……いえ、違うわね。私は他者の思考や過去を読み取ることができるのよ」 「嘘」 「本当よ。覚醒者と呼ばれる人たちがいるの。私のような力を持つ人は珍しくないのよ」  だからこんなにも、テレサはフェイヴァに親身なのだろう。フェイヴァの痛みが、我がことのように感じられるから。 (人間じゃない私を受け入れてくれる人なんて……きっとこの人以外にいない)  テレサは自分を救ってくれた。武器を持った兵士に恐れずに向かっていく彼女は、母親の愛を超越するほど献身的だった。しかしそれは、彼女がフェイヴァを造り出したからだ。  他者には容易に立ち入ることができない、閉鎖的な関係。  自分を受け入れてくれるのは、世界でたったひとり。真実か思い込みかわからない確信が、フェイヴァの胸には宿っていた。  普通の人間がフェイヴァの正体を知れば、敵意を抱かずにはいられまい。失敗作と罵った男のように。フェイヴァを傷つけた兵士たちのように。  必要としてもらえない。理解してもらえない。未知の世界は、恐ろしいほど荒涼にフェイヴァの脳裏に想像される。 「……フェイヴァ。手を出して」 「え?」 「いいから」  フェイヴァは言われるがまま、テレサの身体の横に手を差しだした。彼女は手綱から片手を外すと、後ろ手でフェイヴァの手を取る。 「私の手、少し冷たいでしょう? でも、あなたの手は温かいわ。体温の違いはあるけれど、こうして握っていても違和感はない。あなたは人と違いはないわ」  フェイヴァは感触を確かめるように、テレサの手を握り返す。 「あなたは確かに、天使の揺籃から生まれた。だけど、私はあなたを兵器として生み出したわけではないわ。恐れないで。嫌悪感に苛まれる必要はない。必ず人に受け入れてもらえる。必ずよ」 「……そんな気休め」 「気休めじゃない。だってあなたは今、涙を流しているじゃない」  テレサに指摘されて初めて、フェイヴァは自分の頬を濡らす雫の存在に気づいた。 (私……泣いてる)  あふれる涙が、テレサの横顔をにじませた。  胸が締めつけられる。自己に対する不安。光が見えない未来。それらを思うと、声を限りに叫びたくなる。 「あなたは今苦しいでしょう。けれどそれこそが、あなたが人と同じ心を持つ証なのよ。痛みを知っている人は、それだけ人に優しくできる。煩悶を感じられるあなたは、人と一緒に歩くことができるわ。私はそれを確信している」  フェイヴァは肩を震わせた。止まることのない涙に触発され、嗚咽がもれる。  テレサはそんなフェイヴァを励ますように、手に力を込めた。  ひんやりとした、けれど確かな温もりのある彼女の掌。 「だから、どんなことがあっても自分を諦めないで。あなたの人生はまだ、始まったばかりなのだから」  テレサの透き通った瞳は、その奥に秘められた確固たる遺志を透かして見せた。嘘偽りのない彼女の真摯な気持ちが、励ましに込められている。  自分を肯定することは、まだできない。けれど創造主であるテレサを信じることはできた。というよりも、信じざるを得なかったのだ。彼女の言動からは、フェイヴァを守りたいという思いが強く伝わってくる。  きっとテレサに心を開くことこそが、自分を認める第一歩となるのだろう。 「……うん」  フェイヴァは震える声で返答した。自分を見つめる瞳は、あまりに優しい。
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