01.天使の揺籃

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01.天使の揺籃

(……ここはどこ?)  目覚めるとそこは、見覚えのない場所だった。  かすかに苔むした臭いが漂っている。石材で組み上げられた広々とした部屋だ。窓がなく、外の景色を覗い知ることができない。柱には燭台が取りつけられており、明々とした火が踊っていた。  たった今まで横になっていた寝台。身体に被せられていた薄い布。そして、何ひとつ身につけていない自分。  何故こんな場所で眠っていたのか。少女にはわからなかった。どうやってここに来たのか、記憶を頭から引っ張りだそうとする。――しかし。 (……あれ? 私の名前って、何?)  ここがどこか、だけではない。自分のことについても何も覚えていないのだ。  どうしてこんなことになってしまったのだろう。何もわからない、この状況が怖い。 「誰か……誰かいますか⁉」  堪らずもらした小さな声は、助けを求める叫びとなった。答える者はない。心細そうな声が石の壁にぶつかって、虚しく木霊する。 (どうしよう……)  視線の先には巨大な扉がある。金属の扉は冷え冷えとした光沢を宿していて、見ているだけで不安になってくる。  このままここにいて、人が入ってくるまで待つべきだろうか。それとも、勇気を出して部屋の外に出てみようか。思い倦あぐねていると――小さな音が聞こえた。  気泡が弾けて消えるときのような、くぐもった音。  何かを思うより先に、少女は自然と振り向いていた。 「ひっ……!?」  目に飛び込んできた物体は――過去を思い出せない恐怖も、裸でいる羞恥心も、吹き飛ばしてしまうほどの威力があった。 (何……これ……!?)  巨大な化物。  腕だけが異様に長く、胴体は寸断されたように脚がない。蛙を彷彿させる顔貌に、血色の眼光。身体を包む外皮は鎧のように硬質で、深い緑を湛えていた。腹部と思われる部分は卵を思わせるほどに丸く、内部が透けて見える。そこには発光する青い液体が満ちていた。ごぼり、と音を立てて、大きな泡が浮き上がる。  中には、青白い肌をした男の生首が浮いていた。  鳥肌が立つ。寒気がする。一体なんなのだろう、これは。 (……外に出ないと)  知らない場所だからと尻込みしている場合ではない。扉の外がどうなっているかわからないが、部屋から出て助けを求めるべきだ。何より、こんな気味の悪い化物と一緒にいるのは耐えられない。  少女は化物の反応を窺うかがいながら、寝台から降りた。目を離した瞬間に、化物が襲いかかってきそうな気がして視線を外すことができない。  化物は身じろぎせずに、鋭い牙が生えた口を緩慢に動かし続けている。その背からは植物の根なのか触手なのかわからないものが生えていて、壁一面を覆い尽くしていた。腹の液体と同じ怪しく光る青い色で、脈動している。気持ちが悪い。  細心の注意を払いつつ後退する。裸足が床と擦れ合って、ぺたりと気の抜けた音がした。かすかな音なのにやけにはっきり聞こえて、自分が立てた音に自分で驚いてしまう。ぞっとして、少女は固まった。  化物は足音が聞こえていないみたいに咀嚼を続けていた。  しばらくそのままの姿勢で化物の出方を待った少女は、ひとまずの安堵の溜息を吐く。ほんの少しだけ、頭が冷静さを取り戻した。  そもそもこの奇怪な生物に襲う意思があるのならば、少女は今頃口の中に放り込まれているだろう。今の今まで気を失っていたのだし、大声を上げたのだから。 (見た目は怖いけど人を傷つけたりはしない……のかな?)  だが、今襲われないからといって、いつまでも何もしてこないとは限らない。警戒するに越したことはないのだ。  少女はそろりと、歩みを再開する。ぺたぺたと軽い音が響く。扉に背中を向けつつ動いているので、距離が掴めない。  永遠とも思える苦痛の時間が続く。  やがてひやりとした感触が、肩に触れた。出口だ。ほっとしたのと、早く部屋から出たい気持ちに背中を押されて。少女は扉の取っ手を掴んだ。――押し開こうとした矢先、向こう側から強い力で一気に引き開かれた。驚いて飛び退こうとして、尻餅をついてしまう。  三人の来訪者が、部屋の中に足を踏み入れた。 (よかった……。人、いたんだ)  真っ先に歩を進めてきた女は、白衣を着こんでいた。歳は二十代半ばだろうか。背中あたりまで伸ばした銀色の髪が、立ち止まった拍子にふわりと揺れる。  青白い肌に神経質さを感じさせる目つきをした壮年の男が、女の後ろに続く。彼は少女を見るなり、口を半開きにし固まった。男も女と同様に白衣を身にまとい、手には木の板にとめられた紙と硬筆を持っている。  少女の瞳は、続けて部屋に踏みこんできた少年に釘づけになった。正面を釦でとめた黒衣を身につけ、腰と肩には細長い帯が巻かれている。肩から覗いているのは、太い柄だった。――大剣を背負っている。 「変ですね。なぜ勝手に起き上がっているんでしょうか?」  男は少女を見下ろし、訝いぶかしげに顔をしかめる。 「テレサ博士、これは失敗作ですか?」  男の問いかけに、テレサと呼ばれた銀髪の女は答えなかった。少女を見つめる空色の瞳が、今にも泣き出しそうにうるんだ。  男が意味のわからないことを口走っているが、今は自分の状況を把握することを最優先する。 「あの! 私、何も思い出せないんです! ここはどこなんですか? どうして私、こんなところにいるんですか?」  立ち上がり尋ねると、男はぎょっとした表情をした。少女が喋りだすとは予想もしていなかったような、大仰な反応だった。 「こ、これはまさか……意思を持っているのでしょうか? これではまるで人もどきではないですか。ああ、なんと気持ちが悪い。出来損ないのごみですね」 (……私が、ごみ?)  初対面の人に、なぜこんなに酷いことを言われなければならないのだろう。傷ついた心の痛みを意識している暇はなかった。  テレサが少女のほうを向いたまま、男の顔面に肘を打ち込んだのだ。ごく自然な動作でありながら、風のように鋭い一撃。男は昏倒し倒れる。
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