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もへじの約束
今日僕は丸の内もへじに行く。
相手は台湾の出版社の人間だ。
大蛸の鉄板焼きを頼むつもりだ。
夜の丸の内は相変わらず煌びやかで、どこか冷たい。人々が足早に歩き、すれ違っていく中、僕は一つ一つの足音を数えながら店へと向かった。約束の時間は19時。彼女――いや、相手は、時間には正確なはずだ。
店内に入ると、すぐに彼女の姿が目に入った。手を軽く振る仕草は控えめだけど、温かさを感じさせる。僕は急いで席へ向かった。
「お待たせ。」
「いいえ、私も今来たところです。」
彼女の声は柔らかかった。台湾から来た出版社の編集者であると同時に、僕のかつての「彼女」だった。2年前、僕が彼女に別れを告げたとき、僕たちはこんな風に再会するとは想像もしていなかった。
「大蛸の鉄板焼き、頼んでもいい?」
「ええ。私もそれを食べたいと思ってたの。」
会話は穏やかで、まるで何事もなかったかのように進んだ。けれど、僕の胸の奥では、別れの記憶が疼き続けていた。彼女の目を直視するたび、罪悪感が押し寄せる。
「台湾ではどう?」僕は問いかけた。
「忙しいけど、充実してるわ。」
彼女は微笑んだ。その笑顔は以前と変わらないけど、どこか遠い。手の届かない場所にいるようだった。
料理が運ばれてくる。鉄板の上で大蛸が跳ねる音が心地よく、香りが空腹を刺激する。でも、僕の口の中は乾いていた。
「君とこうやって再会するなんて、思ってもみなかった。」
「私も。でも、ここで会おうと決めたのはあなたでしょう?」
「……ああ、そうだね。」
会話が一瞬途切れる。その間に彼女の指が小さく動き、指先がグラスを撫でた。その仕草を見ていると、記憶が一気に甦る。最後に彼女と別れた日、僕は彼女を傷つけた。それを埋める言葉を持たないまま、ただ逃げ出した。
「君に伝えたいことがあるんだ。」僕は勇気を振り絞った。
「何かしら?」
彼女は穏やかに首を傾げる。その瞬間、僕は彼女の笑顔にどこか違和感を覚えた。いや、違和感ではない。確信だった。
「いや……ごめん、なんでもない。」
言葉が喉に詰まる。彼女は静かに頷き、グラスを口に運んだ。そしてその後、まるで待っていたかのように口を開いた。
「私も伝えたいことがあるの。」
「なんだい?」
彼女は目を伏せたまま、ぽつりと呟いた。
「私、もうここにはいないの。」
時間が止まる。彼女の言葉が何を意味するのか、すぐには理解できなかった。
「どういうこと?」
「この店で待っていたのは、あなたの記憶の中の私。あなたが『もしも別れなかったら』と想像した姿よ。」
「……嘘だろ。」
僕は震える手でグラスを掴み、視線を彼女に戻す。でも彼女の姿は薄れていき、空気に溶け込んでいくようだった。
「これが最後の約束よ。あなたの中で私はもう自由になれる。だから……Have a nice day」
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