もへじ

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もへじ

今日僕は丸の内もへじに行く。 相手は台湾の出版社の人間だ。 大蛸の鉄板焼きを頼むつもりだ。 夜の丸の内は賑やかだった。スーツ姿の人々が行き交い、レストランから漏れる明かりと香ばしい匂いが、疲れた身体を少しだけ癒やしてくれる。けれど、僕は楽しむ余裕などなかった。この会食は僕のすべてを左右する。いや、もっと正確に言えば、僕の「存在」そのものを。 店の扉をくぐると、目の前に広がるのは鉄板の熱気。奥の席に目をやると、彼が座っていた。台湾の出版社の編集者、陳だ。僕は一瞬、躊躇した。なぜか彼の姿が、不気味に浮いて見えたからだ。しかし、後戻りはできない。僕は意を決して席に向かった。 「陳さん、お待たせしました。」 「いえ、ちょうど今来たところです。」 陳は穏やかな笑顔を浮かべたが、何かが引っかかる。僕は彼の顔を観察しながらメニューを開いた。大蛸の鉄板焼きを指差すと、店員がすぐに頷いて消えていった。 「台湾からわざわざありがとうございます。」 「いえ、こちらこそ。あなたの話を聞くのを楽しみにしていました。」 彼の日本語は流暢だが、少し硬い。僕は自分の書いた原稿のことを話し始めた。物語のテーマ、キャラクターの背景、そして物語を通して伝えたいメッセージ。それらを熱心に伝える間、陳は興味深そうに耳を傾けていた。しかし、ある瞬間に気づいてしまった。彼はメモを取っていない。まるで、この話をすでに知っているかのように。 「ところで、陳さん。」僕は思い切って尋ねた。「何か、僕の話についてすでに知っているんですか?」 陳は静かに笑った。その笑みが、冷たいものに変わるのを僕は見逃さなかった。 「あなたが気づいているかわかりませんが、私はあなたについてかなり詳しいですよ。」 「それは……どういう意味ですか?」 僕の声が少し震えた。陳はナプキンを広げながら、ゆっくりと口を開いた。 「あなたが私の小説の登場人物だからですよ。」 一瞬、意味がわからなかった。彼が何を言っているのか理解できない。でも、その言葉が奇妙な既視感を伴って僕の中に響いた。 「……冗談ですよね?」 「いいえ、冗談ではありません。あなたは私の物語の中で生まれた存在です。こうしてあなたが私に疑問を抱くことさえも、私はここに書き記している。」 「そんなわけが……」言葉が喉に詰まる。僕は急に周囲の風景が歪むのを感じた。目の前の陳の姿が曖昧に揺れる。店の鉄板の熱気さえ、遠のいていくようだ。 「あなたの物語は今日で終わりです。」陳はそう告げると、手元のノートを開いた。ペン先が紙に触れる音が聞こえるたび、僕の身体が動かなくなる。 「待ってくれ! まだ終わりじゃない! 僕には……」 叫びたいのに声が出ない。全身が石のように硬直する。視界が闇に閉ざされていく中、最後に彼の声だけが聞こえた。 「Have a nice day」
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