仮想現実

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「イテッ!」 朝の通勤ラッシュの中、誰かとぶつかった拍子に右耳から転がり落ちたイヤホン。私は慌てて人の流れを避けながら、床に転がる小さな白い機器を拾い上げた。 「大丈夫ですか?ごめんなさい」 声をかけてきた若い女性の耳にも、もちろん同じようなイヤホンが光っている。彼女の目は私を見ているが、きっと同時に私の個人情報や、この衝突による遅延が今日のスケジュールに及ぼす影響を確認しているのだろう。 「あっ、大丈夫です。」 そう答えながら、拾ったイヤホンを耳に戻そうとした瞬間、違和感に気づく。 見た目に壊れたところがないが、イヤホンを耳に入れても、全くの無音で明らかに機能していない。 予備を取り出そうとバッグの中を探るが、なかなか見つけ出せない。 「そういえば、昨日使い切ったまま補充するの忘れてた!」 一瞬、会社に向かう足が止まる。 これまで経験したことのない静寂が、私を包み込む。 いつもなら、「おはようございます。今日の気温は23度、降水確率30%です。9時からの会議資料は確認済みですね。その前に、コーヒーを買うことをお勧めします。」という声が、自然に耳に入ってくるはずだった。 駅のホームに立ち、電車を待つ。周りの人々は皆、無言で前を向いている。でも、彼らの頭の中では様々な情報が行き交っているはずだ。株価、ニュース、予定、天気、恋人からのメッセージ。 私は初めて、自分の意志で電車の時刻を確認しなければならなかった。掲示板をなんとか探し出し、時刻表を目で追う。なんて非効率的なんだろう。でも、なぜか少し、心が落ち着く。 その日一日、私は全ての情報を自分の目で見て、耳で聞いて、手で触れて確認した。会議の内容も、自分の頭で考えて発言した。ランチの味も、いつもより少し濃く感じた。 そして気がついた。 これまで私は、自分で情報を選び取っているつもりだった。 でも実際は、選ばされていたのだ。 行きつけのカフェに立ち寄るのも、おすすめの新作だからと促されるから。休日に映画を見るのも、私の好みを分析した結果として薦められるから。友人との会話だって、AIが提案する話題に沿って進めていただけなのかもしれない。 自分で判断しているつもりが、全ては与えられた選択肢の中からの選択にすぎなかった。効率や利便性と引き換えに、私は知らず知らずのうちに、自分で考え、感じ、決める機会を手放していたのだ。 夕方、電気店に立ち寄り、新しいイヤホンを手に取る。クリアケースの中で、小さな白い機器が優しく光っている。その光は、まるで「早く装着して」と私を誘うかのようだ。 これは本当に、私という人間の拡張なのだろうか。それとも、私らしき人間を作り替えている、ニセモノなのだろうか。 もし作り替えられているとしたら——本物の「私」とは、いったいどこにいるだろう。 イヤホンの光が、まるで私の意識を引き寄せるかのように輝いている。指先で触れると、冷たく硬い感触が伝わり、まるでそれが私の一部であるかのように感じる瞬間がある。 これまで私の世界は、いつもその中にあった。イヤホンをつければ、声が届き、情報が流れ、私はそこで生きていた。しかし今、この静寂の中で気づく。 イヤホンは私を支配し、私の「選択肢」を与えていただけだったのだ。私という人間が選んだと思っていたもの全ては、その小さな機器が導いていたのだ。 それを意識した瞬間、私は本当に私でいられるのか不安になる。 もしこれを手にしたなら、私はまた元通りになれるのだろうか、それとも、もう一度、別の誰かになってしまうのだろうか。 イヤホンを見つめたまま、私は長い間、その場を動けなかった。
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