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玄関先にて
「あら、お久し振り」
後日、Kの自宅を訪れた私を玄関先で出迎えてくれたのは彼ではなく黒雀姫だった。その姿を一目見た瞬間、私は全ての顛末を嫌でも悟らざるを得なかった。
「これ、疑いが解けた祝いの。Kの好きなやつなんだ」
逃げる機会を失った私は、相手を刺激せぬ様、慎重に言葉を選びながら、ビニール袋に入れて持って来た酒瓶を差し出した。黒雀姫は左手を出して私から酒瓶を受け取る。今日の黒雀姫は、トレードマークである黒いセーターの袖を捲っていた。露わになった彼女の両腕の素肌には、白くなった古い物から、赤い新しい物まで、刃を用いたと思しき無数の創傷が刻まれていた。
「ありがとう。きっと彼も喜ぶわ。……でも、警察も馬鹿なものよね。虫一匹殺せない心優しい彼が、あの雌豚を殺せる訳ないじゃないの。だけど、彼があらぬ疑いを掛けられるのはこれが最後。これからはあたしが護ってあげるんだから。……薄汚い他の女達からも、ね」
この時私は、彼女の笑顔を初めて見た。汚れてさえいなければ、素直に可愛らしいと思えた事だろう。
電脳から教えられたが、殺されたのは黒雀姫ではなかった。Kが私に恋人として紹介した女雀士と、Kを振り、その後住宅で殺された元恋人は別人。二股と言う不義理を働いていたのは、殺された女だけではなかったのだ。
「それじゃあ、俺はこの辺で」
「待って」
辞そうとする私の肩を、黒雀姫は素早く右手で掴んだ。
「丁度あたし、Kに料理を作った所なの。肉まんに焼売、回鍋肉……彼って中華が大好きなのよ。良ければご一緒しない? 張り切って良いお肉も使っちゃった」
泣きたくなる程の、失禁したくなる程の恐怖が私を襲ったが、それでも丁重に断りの文句を喉から絞り出した。
「……そう、それは残念」
心から残念そうに、それでも素直に、黒雀姫は私の肩から手を放した。――もし彼女に、僅かでも正気や理性が残っていたのなら、きっと私は今、生きていない。
私は全身血濡れの黒雀姫を凝視しながら、彼女の腕が届く範囲の外まで後ずさりをすると、素早く踵を返し、全力で走ってその場から逃げ出したのだった。
あれから実に四十年近い年月が経ったが、Kに誘われたあの日を最後に、私は麻雀を打てていない。
了
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