3人が本棚に入れています
本棚に追加
数時間前。
廊下に設置されている長椅子で、窓の外を見ながらカロリーメイトで昼飯を済ませた。
経理部に戻ると、長年手入れされていない空調の饐えた匂いが鼻につき、オレの机に不在分の書類の束が山のように折り重なっていて、カロリーメイトしか収めていない胃袋が鉛のように重くなる。
今日も残業だな。いや、産業医面談を理由にすれば、定時で帰らせてくれるかもしれない。
そんなことを考えつつ胃痛に耐えながら、書類の束に一通り目を通して取り掛かる優先順位を確認し、文書管理のフォルダにあるExcelファイルの一つをコピーしてデスクトップに貼りつけた。
その時、微かに感じた違和感。その正体は、ダブルクリックしてファイルを開いた瞬間に、オレの意識を数秒ほど飛ばした。
「え?」
思わず変な声が出る。
このファイルには、各シートごとに業務に応じた関数が入っている、うちの部署の主戦力だ。
あまりにも重宝されすぎて直接触れる気も起きず、みんなコピーしたデータを自分用にカスタマイズして普段から使っているのだが、振られた業務にオレがカスタマイズしたより以前の、つまり元の計算式が必要になり、ファイルをコピーして開いたわけで……。
オレが恐る恐るシートを確認すると、関数どころかセルの結合で書式のほとんどがメチャクチャにされて、マクロも機能しない状態で上書き保存されている。
というか、オレが見ているのはコピーしたファイルデータだから、元のデータがメチャクチャにされているのだ。感じた違和感の正体は、ファイルの横に記載されている更新日時が今日であり、誰かがこのファイルを上書き保存をしたのだということ。
「すみません、上野課長」
オレが慌てて上司に声をかけると、惨状を目にした上野は「これはヒドイな」と眉間にしわを寄せた。
「すまん。この業務は午前中に、江森にまかせたヤツだ。上書きするなって言ったのに」
江森というのは、中途で入って来た50代の新人であり、オレにとっての年上の後輩になるのだが、入って一ヶ月で経理部のお荷物認定された。
ともかくすぐ忘れる上に、自分の失敗をすべて人のせいにするのだ。
業務を振らないと勝手にゲームをしだすし、セクハラ・パワハラをしている自覚もない。
人手不足じゃなければ自主退職をすすめているところだが、さすがに今回はライン越えではないか?
「すみません、江森さん。このリスト、打ち込みは終わったのかい?」
あくまで穏やかな態度を崩さず、上野が江森に呼びかけるも、江森の方は、なにかに熱中しているようで席から離れない。もしかしたら、ゲームをしているのかもしれない。
「おい」っと、席の隣にいる白石が強めに呼びかけると、江森は不機嫌そうに顔をしかめて席を立った。
「なんっスか」
おいおい、と、オレはヒヤヒヤしながら成り行きを見守っているが、江森の方は事態がのみ込めていないらしく、世間知らずな子供のようにひたすら呑気だ。
「このリストですか? 午前中に終わらせましたよ」
「……あぁ、それでこのファイルは、もともと上書き保存してはいけないデータだよね。復元かけて元のデータに戻したいから、君が打ち込んでくれたこのデータは別名保存していいかな?」
「えーと。いいんじゃないスか」
他人事かよ。とはいえ、この時点で分かって良かったし、上書きしたデータは元に戻せる。使っているExcelが2010以降のバージョンで本当によかった。
「……そうか、わかった。席に戻ってくれ」
「あのー、ありがとうございますは?」
――は?
オレは江森の言葉に耳を疑った。
もしかして江森の方が上野より年上だから、それなりの態度を上野に求めているのだろうか。
周囲の戸惑いをよそに上野は笑顔を作って言う。
「教えてくれて、ありがとうございます」
「……ッス」
見ていてさらに胃が痛くなった。
心なしか部内の空気が重くなって、所々からため息が聞こえてくる。
物言いたげなオレの視線に気づいて、上野はぽつり漏らした。
「ファイルを上書きされないように、読み取り専用にしなかったこちらのミスさ。今まで上書きされなかったから、私の方が迂闊だったんだよ。なにより、ファイル自体を消されたり、勝手に動かされたりするよりも何倍もマシじゃないか」
それは、まるで、自分で言いきかせるように頼りないものだった。
最初のコメントを投稿しよう!