トランス

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 結局、あれから残業した。  歩くたびに胃が痛み、電車で立っていることもやっとだった。  アパートに帰って、スーツのまま滑り込むように布団に入ると、意識が強制的に真っ黒く塗りつぶされる。  塗りつぶされて、押しつぶされる。  自分の身体に、血だらけで悲鳴をあげている自分の胃袋に。  誰か助けて。  そんなことを考えながら、オレの意識は闇に落ちた。 ◆  懐かしい香りがした。  蒸れた草の香り、夏特有のほこりっぽい土の香り、蚊取り線香と、そして……。 ――しゃくりと、小気味よい音をたてて切り分けられる音がした。 「さくちゃん、さくちゃん、起きなさい。スイカが切れたよ」  オレの肩をゆする、しわがれた優しい声。  声の正体に思い当って、大人になったオレの意識がわっと泣き出したくなった。  これが夢だとわかったものの、肩に当たる夏の陽の感触や、うだる熱気と蝉の声、背中の畳、頬をなでる扇風機の風の感触がさまざまと蘇り、鼻がつんとなって目じりから涙が(つた)っていく。 「ばあちゃん?」 「どうしたんだ、朔太郎(さくたろう)? 怖い夢でも見たのかい」 「じいちゃん……っ」  助けて。  オレの願いが天に通じたのだろうか。  すでに他界した祖父母が目の前にいて、起き上がるオレは小学生の姿だ。  ここは夏休みの間に、いつも預けられた祖父母のいる田舎の家であり、オレがいるのは庭に通じている居間(いま)で、丸い卓袱台(ちゃぶだい)にはオレが大好なスイカが(ぼん)にのせられている。 「じいちゃん、ばあちゃん……っ」  声を上げて泣き出すオレを、祖母が頭を撫でて、祖父が背中を撫でてくれた。まるで愛されているような、水のように染み渡っていく感触にうぐっと(のど)が鳴る。もう存在しない、黄金色の夏の光に包まれた安心できる場所。  さくちゃん、朔太郎……。  社会に出て記号と化した自分の名前が、祖父母の呼びかけで意味を取り戻していき、オレは泣きじゃくりながら祖父母に抱きついた。 「うわーんっ!」  そうだった。  オレの名前は野分(のわき) 朔太郎(さくたろう)だ。  そんな、当たり前なことを、今更ながら思い出した。 「さぁさ、スイカ食べて元気をお出し」 「うん」  泣き止むタイミングを見て、祖母がスイカをすすめてきた。  さらに半月のスイカを持った祖父が縁側に腰を下ろして、隣に座るように手をひらひらさせる。  オレが喜んで駆け寄ると、スイカの種の飛ばし合いが始まって、勢い余って何度か種を飲み込んだ。  スイカの甘い果肉と、種を噛むごとに感じる香ばしさと、味そのものを引き締める塩の味。  忘れられた好きな味。オレの食べ方。  やめた、きっかけは――。  夢中にスイカにかぶりつき始めたオレに、祖父が話しかける。 「おいおい、朔太郎。いつも言っているだろう? スイカの種を食べまくると、ヘソからスイカの芽が生えてくるんだぜって」  回線が切れたように、唐突に、夢がそこで終わった。    
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