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一週間ぶりに会社へ出勤すると、今まで感じていなかった空気の異質さに、本能が警鐘を鳴らした。
「江森! トイレットペーパー無くなっているぞ! 近くのスーパーで買ってきてくれ」
「あとゴミ出しな、シュレッダーのゴミクズが溜まっているぞ」
「…………」
そんなイジメまがいなことをしなくても。
時短勤務やファイルの上書き事件、あとオレがいない間に部署の女性を敵にまわす発言を何度もしたらしい。
そういった諸々の経緯で、今の江森は完全に雑用係だ。
心なしか部署内が小綺麗になり、以前よりみなが快適に過ごしているのが分かるが、オレにはなんだが別の意味で汚れているように見えてくる。
「あの、上野課長。急ですが、お話が……」
「あ、あぁ。なんだ」
せこせこと、みなの声に追い立てられていく江森の丸まった背中から、黒い靄が漂いだして見えるのは気のせいじゃない。
オレは沈没する船から逃げるネズミの気持ちで、休職する旨を話して書類をもらい、申請方法の簡単な説明を受けた。
「……君までいなくなるんだな」
なにかを察した上野が寂しそうに笑い、オレは「お世話になりました」と、周囲に聞こえないように声をひそめた。
さっきから鳴り続けている電話の音が、自分の声を隠してくれるように願いながら、精一杯の誠意をこめて上野に頭をさげる。
「有休もまだ充分残っているんじゃないか。今日はもう帰りなさい」
「はい」
まだ電話が鳴りつづけている。
とにかく、早く、ここから逃げないと。
致命的な事態が起きないうちに。
「おいおい、そんなに身体の調子悪かったのか」
「野分さん、だいじょうぶ」
「体調よくなったら、飲みに行こうぜ」
急いで帰り支度をするオレを、みんながそれぞれ声をかけてくれるが、オレの直観がナニカガチガウと告げている。
オレが休んでいるうちに、気づかない間に、みんな変わった。
しかも取り返しのつかない形で。
「大変だ! 近くの道路で江森が轢かれて、息をしていないらしいぞ!」
やっと電話に出た同僚が、飛び上がるように立ち上がって、歓喜の声を張り上げる。
――あ。
うすうす感じていた最悪の展開。
オレが見た、ついさっきまで、そこにいた江森。
社員証をつけていたままなら、うちの人間だと分かって、連絡がすぐに行ったのだろうけど。
「あー、やっと死んでくれた」
心の底から安堵している、誰かの声にゾッとなる。
ざわざわと声にしなくても空気で伝わってくる感情の波に、新たな犠牲者を探す目に、怪物を育てていたはずの胃が痛みの悲鳴をあげた。
この部署内で、人間が自分一人になってしまったような恐怖。
怪物を育てていたのは、果たしてどっちだ?
【了】
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