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「なんですか、それ。ちょーうける」
そうは言いつつ、実際はうけているのかうけていないのかわからない起伏のない声を上げて、草薙さんはプラスティックのコップに注がれたアイスティーをストローで啜った。西日が射しこむフードコート。顔を突っつき合わせて笑う女子高生、それぞれにベビーカーを連れたママ友、走り回る子どもたち。緩く首を傾げる彼女を、そこかしこで生まれた喧騒が包んでいる。
「椎名さんの彼女さんって変わってますね」
「そう……かな? いや、こんな突拍子もない提案をされたのは初めてなんだ。普段はとても落ち着いている女性だよ」
ふーん、とやはり平坦な声で、草薙さんが相槌を打つ。首を傾げる動きに合わせて、つやつやとした黒髪がフェイスラインにかかる。
「それで、私の出番ってわけですね」
「なにとぞよろしくお願いします」
安っぽい椅子に座ったまま、深々と頭を下げる。
草薙さんは、このショッピングセンターの一階にある花屋でパート勤務をしている。餅は餅屋、だ。ちなみに俺は、このフードコートに収まる五つの飲食店のうち、とんこつラーメン屋の雇われ店長。なにかと馬が合う草薙さんとは、このフードコートでたまにランチやお茶をする仲だ。
五つも年下の女の子に、三十路を超えた男が頭を下げる光景はなんとも滑稽だが、なりふり構っていられない。なにせこの両肩には、未来を背負った苗木が根を張っている。
「といっても、私だって勤務半年のひよっこですよ。あんまり役に立たないかも」
「それでも、卵から孵ることもできていない俺より百倍頼りがいのある先輩だよ。ほら、これが苗木の写真」
どれどれ、と身を乗り出した彼女に、スマートフォンの画面を見せる。実物を見てもらうのが一番いいが、巨大な鉢を手に出勤するのはさすがに躊躇われる。警備員に止められる姿が容易に目に浮かぶ。
「いやー、さすがに苗木だけじゃわからないですね。一応、新倉さんにも聞いてみますけど」
新倉さんは、花屋の雇われ店長だ。
「ありがとう。助かるよ」
「彼女さん、育て方も教えてくれなかったんですか?」
「いや、それはさすがに。直射日光を避けて、水やりは一日一回だって」
「ふーん。じゃ、鉢植えは半日蔭になるところに置いてくださいね。この時期は暑いから、水やりは早朝か夕方がいいですよ」
勤務半年と謙遜するわりには、彼女は持てる限りの知識を伝授してくれた。鉢植えに適した土、植えかえ時期、注意すべき病気や害虫。それどれもが聞き馴染みがなく、まるで異国の言葉を聞いているかのようだ。
ふんふん、と頷いてメモしていると視線を感じた。顔を上げると、琥珀色の液体が中途半端に残ったコップを片手に、草薙さんがじっと見ている。
「花、咲いてほしいですか?」
「もちろん」
「ふーん」
「そろそろ帰りますね」と口にした草薙さんが、幼児用かと疑いたくなるほど小さなバッグから財布を取り出す。行動の意図を察して、慌てて止めた。
「あ、いーのいーの! 勉強代ってことで」
「でも、この前も奢ってもらったし……」
「仕事終わりの一杯くらいたいしたことないから、本当に気にしないで」
ひらひらと手を振ると、困った顔をする草薙さんだったが、最後は渋々ながら頷いてくれた。
「私、思ったんですけど、花が咲いたらプロポーズの返事がわかるって、裏を返せば少なくとも二、三ヶ月は返事保留ってことですよね?」
「……そういうことだね」
「枯れないといいですね」
にこっと眩しい笑顔を残して、草薙さんは喧騒に満ちたフードコートを去って行った。
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