本編

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 プロポーズをした。ならば、答えを聞くまでがセットだ。とどのつまり、苗木に花を咲かせるしかない。  四の五の言わずに苗木を育て始めたのはいいが、水やりひとつとっても想像以上に手間と根気がいる作業だった。  夏の水やりは早朝か夕方がいいと草薙さんは言ったが、基本的に夕方は仕事に行っているため、必然的に早朝に限られる。八月の日の出時間を調べると、六時十五分だった。八時にゴミ捨てに出た時には、すでに肌が焼けるような暑さだったから、少なくとも六時十五分から七時半くらいの間に水やりを済まさなければいけない。おのずと早起きを強いられる。遅出で帰宅が夜半に差しかかる日の翌朝は、特に堪えた。  いっそ、たっぷり水を与えることで、一日くらい水やりをスキップさせてもらえないだろうか。そんな狡い思考を責めるように、たっぷりと水を与えるようになった苗木は次第に元気を失っていった。葉の艶を失い、萎れた写真を草薙さんに見せると、「根腐れしているのでは」と指摘を受けた。どうやら、与えすぎた水が鉢の底に溜まって、根っこを腐らせてしまったようだ。結局、カンカン照りのベランダで滝のような汗を流しながら、根腐れした部分を切り落とし、清潔な用土に移し替えるという余分な作業が発生した。素人がひとりでできる作業ではなかったので、事前に草薙さんや新倉さんから綿密な指導を受けてから行った。 「なんかごめんね。育てるの、大変でしょう。もうやめる?」  夕食を囲むサヤちゃんが、隙なく描かれた眉を申し訳なさげに下げる。今ここでやめたら、プロポーズの答えをくれるのだろうか。それを質問するだけで、なにか取り返しがつかないものを失う予感があった。 「ううん。大丈夫。案外楽しくやっているよ。手間暇かけたらかけたぶんだけ、すくすくと成長してくれるのはうれしいし」 「そう。私に手伝えることがあったらなんでも言ってね」  部署初の女性管理職に昇進したばかりの彼女は、常に忙しい。出勤は俺より早いし、帰宅は下手したら遅出の俺よりも遅い時がある。円滑な同棲生活を送るためには、料理は俺が、掃除は彼女が担当するのがもっともバランスがよかった。これ以上、サヤちゃんの負担を増やしてはいけない。 「大丈夫。花屋で働いている子にもアドバイスをもらっているから」 「でも、せめて朝の水やりは私がやろうか?」 「ううん。せっかくだし、最後まで自分ひとりでやってみたいんだ。それに、最近涼しくなってきたから、水やりの時間を少し遅めにできそうだし」  「そっか」と頷いたサヤちゃんが、控えめに微笑む。苗木を育ててみてよかったと感じることは、食時にのぼる話題が増えたことだ。苗木に挨拶をしているところをうっかりサヤちゃんに見られて、盛大に噴き出されたこともある。夕食が済むと、各々自室に引っ込むことが多かったが、最近は二人でソファに寄り添って、月の光を浴びる苗木をぼんやりと眺める機会が増えた。苗木を育て始めて、なんとなくだが、サヤちゃんとの間に流れる空気が優しくなった気がする。 「花が咲いたらプロポーズの返事がわかるって言ってたけど、それってどんなかんじでわかるの?」 「それは咲いてのお楽しみ」 「まさか、花びらが偶数だったらNOなんて言わないよね?」 「ふふ、なぁにそれ。そんな花占いみたいなことはしないわよ」  右肩に乗るサヤちゃんの頭の重さが心地よい。小さなつむじを見下ろすと、眼の淵が痛むような妙な感傷に囚われた。  その夜は、サヤちゃんとともにソファで寝落ちした。
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