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臭い、そして香り
その日すれ違った女の臭いは特にきつかった。マスク越しでも途端にその甘い臭いが零の体内へ侵入してきて、瞬間的に脳内と全身を、あの日の記憶にタイムスリップさせた。
猛烈な吐き気。マスク越しの口元を素早く片手で覆い、そして走る。人気のない路地裏。いつもなら寸前で止められることがほとんどなのだが、今回はおもいきり、今朝食べた朝食を全てその場に吐いてしまった。吐いて、咽るを繰り返す。遠のく意識をコントロールし、それを失うことだけは、なんとか避けられた。
周りに人ひとりいないことを確認し、汚れた口元を拭いながら、それからしばらく、その場に座り込んでいた。そして学生鞄に手を伸ばし、なかを漁り、取り出す。
父親の零翔が今朝吸っていたのと同じ銘柄の煙草だった。
無我夢中でそのうちの一本にライターで火をつけ、体内がニコチンで汚染されていくのも構わず、目一杯吸い、吐き出す。独特の、人によっては嫌悪されるその香りを。
まだ未成年という身の上で、見つかれば即大人に見咎められることはわかっていたが、やめられなかった。今回のように、甘い臭いに心をかき乱され、吐き出した時は、特に。
現にこれまで、煙草を吸っているところを見つかり、零翔共々学校に呼び出しをくらったことは一度や二度ではなかった。そのたびに父子揃って、黙って頭を下げた。
ふたり肩を並べて歩く道中。零翔は決まって、零をその腕に抱き寄せた。かつて零が怯え、幼く小さな体を震わせていた時と、同じように。
普通の息子なら、反抗期真っ只中でそんなことをされれば即反発するのだろうが、零は違った。父親に抱きしめられ、怒りにかられるどころか、すぐ側の父親の臭いを体いっぱいに吸い込みながら、そんな零翔の背に強く手を回した。
耳元では、零翔の、ごめんな……という呟き。
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