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結婚式からひと月経った。
まだ二人で暮らしていないし、新婚旅行もいっていないからか、全く実感が沸かない。
あなたのタキシード姿は本当に素敵だった。
入社してからずっと憧れだったあなた。
初めて声をかけられた日は舞い上がってしまった。
それから、少しずつ話せるようになって、仕事の相談しているうちに仲良くなって、でも、勇気がなくてそれ以上近づくことはできなくて。懐かしい片思い絶頂期。あの頃はあの頃で幸せだったなぁ。
それから、後輩に頼んで飲みに誘ったことをきっかけに休みの日も遊ぶようになった。旅行まで行くようのなるなんて思わなかった。テーマパークで並んだ時もあなたは優しくて、ますます好きになっていった。
ああ、思わず笑みがこぼれてしまう。思い出は今もキラキラしているから。
(本当に結婚したのかな)
式が終わった後で記念にもらった花もすっかり枯れてしまった。白いバラも、ガーベラも、茶色く萎れてしまってもうない。
でも、斑入りのアイビーだけが残っている。水に挿していたら根が生え、そこから育ち続けている。
まるで、「忘れないで! ちゃんと結婚しましたよ!」って言っているみたい。
それでも信じられなくて。結婚式の日からずっと、明日を、出発の日を待っていた。
アイビーの水をかえる毎日を送りながら、新婚旅行の当日を心待ちにしていた。
だから、昨夜はなかなか眠れなくて何度も寝返りを打って、真夜中を過ぎてからようやく眠りについた。
不自然な青臭さに目を覚ますと目の前が真っ暗だった。
目を開けては閉じ、閉じては開けても暗闇しかない。
普段なら常夜灯がついている。つけ忘れたとしても、窓の外の街灯の明かりがカーテンから少し漏れ、デジタル時計やテレビの電源のサインが見えたりするのに、それもない。暗闇に目が慣れて青暗い室内が見えてくることもない。
ただ暗闇が続いている。
たぶん私は寝ている。自分の部屋の布団の上に横になっている。枕元にスマートフォンがあるはずだ。
それを取ろうと体を起こそうとしたけれど、体が少しも動かなかった。手も足も胴も頭も、強い力に押さえつけられ、がんじがらめに捕らえられたように動かない。
何も見えない上に、動けない状況に、私は自分の息が荒くなるのを聞いていた。
左側に冷たい気配がある。
何かがいる。
隣に誰かいる。
何かがいる。
言葉にならない恐怖に全身が震えだした。
そのときだった。
ダイジョウブ?
耳元で声がした。
ダイジョウブ?
ダイジョウブ?
耳元で聞こえるのに小さくて聞き取りにくい。幼い子どもの声のようにも、弱々しい老人の声にも聞こえて脳内が混乱していく。
ダイジョウブじゃない。
このまま動けずに明日になってしまったら、新婚旅行に遅刻してしまうではないか。
空港へ向かうことができないじゃないか。
ダイジョウブ?
もう一度、誰かが囁いた。
怒りや焦りや恐怖の向こうで苛立ちを隠せなかった。
大丈夫なわけない。
それなのに、私は答えていた。
「ーー大丈夫」
ホントに?
私、本当に、大丈夫なの?
「きっと大丈夫。たぶん大丈夫」
暗闇に答えても何も返ってこなかった。大丈夫という嘘がみなしく虚空で消えていく。
どれくらいの時が経っただろうか。
もう声は聞こえない。
返事を待ち疲れた私は、気づくと溶けるように眠っていた。
夜が明ける。
目覚めると四角い天井、その真ん中に丸い電気がある。部屋には見慣れたカーテンと見慣れた家具。見慣れた風景だった。
(夢だったのか)
昨日の「ダイジョウブ」という声は夢だったんだ。そう思って起き上がろうとしたとき。
湿った何かが手に触れた。
慌てて私が布団をめくり上げると、背筋が凍りついた。びっしりとアイビーの蔓が布団に張り付いていたのだ。
(なんなの?)
私の全身にもアイビーが絡みついている。
それを剥ぎ取りながら、昨日の声を思い出す。
ダイジョウブ?
夜中、アイビーが私を縛り付けていたのか?
そして、枕元のスマートフォンの時間を見て、私は慌てて布団から飛び出した。
支度をして家を出なくては。
それでも間に合わないだろう。どんなに急いでもやっぱり遅刻だ。完全に遅刻だ。大遅刻だ。
★
空港についたけど、到着ロビーに彼は居ない。
もう飛行機は飛んでしまった。
(アイビーのせいだ)
立ち尽くしたまま涙が止まらない。
ずっと好きだったのに。
あなたは結婚してしまった。
彼が選んだのは後輩で、あの日の彼女はあなたの隣で幸せな花嫁として輝いていた。
後輩はどんな気分でわたしにウェディングブーケを渡したのかな。
「僕たち付き合ってないでしょ? 君って肉付きがいいから一度やりたかっただけ。いい大人なんだからわかるよね?」
彼はそう言って私から後輩に一晩で乗り換えた。
ううん。乗り換えたんじゃない。もともと後輩狙いだった。私はつまみ食い。使い捨て。
新婚旅行の出発ロビーに乗り込み、
彼の前で手首を切ってやろうと思った。
使い捨てにされた腹いせに一生忘れられない思い出を作ってやろうと思った。
なのに。
ダイジョウブ?
何も大丈夫じゃない私に、アイビーは囁いた。
他の花は枯れても、水の中で根を伸ばして生き続けたアイビー。
短く切られても尚強く育ち続けるアイビー。
かわいい斑入りの葉っぱのアイビー。
「大丈夫」
計画は失敗。
鞄の中のナイフを使えなかった。
(強くなってやる)
もう家に帰ろう。だって、今日もアイビーの水を変えてあげないといけない。信用できない人間などどうでもいい。アイビーのために帰ろう。そして、命の恩人にきれいな水をあげよう。
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