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外は雨が降っていて頭が痛かった。今日は母が来ない日である。母がいないと憂鬱になる。
文字や数字を見ていると頭痛が増すので看護師の飯塚緑が貸してくれたCDを聴きながら窓の外を眺めたり絵を描いたりして過ごしていた。昼食を食べて一時間ぐらいすると絵具の匂いに酔って頭痛が酷くなったのでナースコールのボタンを押した。
「どうしたの?」
緑ちゃんは男の人みたいに背が高くて痩せている。腕や脚が引き締まっているのでかっこいい。
一重だけど目が大きくて鼻が高くて美人である。いつも薄化粧で表情はロボットのように硬い。話をすると優しいし音楽の趣味が面白い。マリリンマンソンやスリップノットを好むので奥が深い。
頭が痛いと伝えると緑ちゃんは立秋先生を連れて戻ってきた。
先生は緑ちゃんよりも頭一つ背が高い。彼はミッキーマウスのタオルを左手に持っている。他の病室の子供の物だろう。どこかで見たことがある。
先生だけが残って緑ちゃんは病室から出ていった。
先生の髪は真っ黒だけど顔立ちが派手でスタイルがいいのでどこにいても目立つ。人気があるのでいつも誰かに追われている。
二重の綺麗な目で黎子を見ながらベッドの隣に立つと黎子の額に右手を当てた。何も言わずに黎子の下瞼を親指で引っ張って眼球を見る。
「口開けて」と素っ気なく言うので口を開けると指を突っ込まれて強引に押し広げられた。
小さな子供が相手だと先生はこんな乱暴な診察はしない。だけど患者の中でも限られた相手に礼節を欠いた診察をする。
同じフロアの男子中学生と男子高校生も遠慮のない診察をされるらしい。
基本的に大人しい女の子には紳士的だけどそれに当てはまらない患者を相手にする時の先生の砕けた診察は患者の間で有名である。だけどそのことに腹を立てる患者はいない。彼は結局顔で得をしている気がする。
いくつか質問をされてそれに答えると先生は白衣のポケットから出した粉薬を黎子に渡してミネラルウォーターのペットボトルを差し出した。
「飲んで」
「いらない。眠くなるんでしょ?」
「頭痛いんだろ?」
「嫌」
「飲んで」
「嫌」
先生は無表情に黎子を見ながらペットボトルを黎子の首に押し付ける。しょうがないので受け取った。
黎子が素直に薬を飲むと先生は椅子に座ったので訊く。
「どうしたの?」
「ちょっと休憩」
「お菓子食べる?」
先生は俯いて首を振った。
先生は黒いズボンを穿いている。シャツは白い。多分高級な服なんだろう。靴は二十万円するらしい。五百万円もする腕時計を持っていると緑ちゃんが教えてくれた。
彼は元々お金持ちの家で生まれ育ったので感覚が麻痺しているらしい。
黎子はペットボトルの蓋を閉めて枕元に置いた。先生が言う。
「音楽聴いてたの?」
「緑ちゃんが貸してくれたやつ。リンキンパーク。『Numb』って曲」
「知らないな」
「チェスターの声が好き」
先生は眉を顰めて「誰?」と言った。
緑ちゃんは黎子には自分の好みを布教しておいて恋人には出来てないらしい。
黎子は自分の好みを先生に教えておく。キラーズとカーペンターズが好きだと伝えた。
カーペンターズは母が車でよく聴いていたので好きになった。キラーズは緑ちゃんから教えてもらった。『Mr.Brightside』はメロディも歌詞もPVも好きである。
「クラシックも好きなんだよ」と言うと先生がチケットをくれたので外出許可が出た日に母と行った。
指揮者が有名な人だったらしい。だけど名前は覚えられなかった。
ブラームスの交響曲がとてもよかった。第三番第三楽章である。寂しいメロディをオーケストラが壮大に演奏するので同調して悲しくなった。
黎子は立秋先生が好きだった。
目が合うと緊張する。先生に触られると体がぎくしゃくする。だから診察時にはどきどきしすぎて何度も深呼吸をさせられる。
だけど先生は緑ちゃんと付き合っている。二人の関係は病院内では有名で誰もが公認の仲である。
「立秋先生ってかっこいいね。緑ちゃんが羨ましいよ」
緑ちゃんが夕食を運んできた時に言うと緑ちゃんは黎子に訊いた。
「佑輔のことが好きなの?」
黎子は慌てて首を振る。緑ちゃんは笑った。
「好きって言っちゃえばいいのよ。佑輔もアイラみたいな可愛い子にそんなこと言われたら嬉しい筈よ」
「緑ちゃんと付き合ってるのにそんなこと言ったって振られるよ」
「だけど今までより優しくしてくれるかもしれないでしょ? 好きだって言われて嫌な人なんかいないんだから。アイラは愛想良くしたらきっといいことがいっぱいあるよ」
緑ちゃんの言葉を鵜呑みにして告白をしたら先生は困った顔をしていた。
だけどそれ以来ちょっとでも機会があると好きだと言った。いつも振られたけど先生は振ったあとも態度が変わらないので変にぎくしゃくすることがなかった。振られて当たり前なので傷つくこともなかった。その程度の気持ちだった。とても好きで彼の言動に左右はされたけど幼稚な感情しか持ってなかった。構ってもらえるのが嬉しかった。
中学は結局入学式にしか行ってない。卒業証書は貰えたけど高校に進学するのは難しかった。実際高校どころではなかった。
母が父を殺して自殺したのは黎子の最後の手術が終わった日である。母は父の食事に毒を盛ったらしい。そのあと手首を切って家に火をつけたので家は燃えて無くなってしまった。
半月後には退院出来ることになっていたのだけど帰る家がなくなってしまった。家族もいない。
元々父も母も親や兄弟と仲が悪くて親戚付き合いがない。頼れる人が一人もいない。三年近く入院して母以外誰も見舞いに来なかったのだから天涯孤独と同じである。
父の遺産が少しだけあるらしい。遠い親戚だと言う女の人から電話で聞かされた。だけど借金を返したら僅かしか残らないらしい。
家もお金もない。
「同情なんか期待しない方がいい」
立秋先生が言った。警察が来て話を聴いたのは手術後すぐだった。まだ麻酔が残っていたのか頭がくらくらして一つの言葉を理解するのに時間がかかった。特に悲しくないのに目に涙が溜まるので苛立った。
多分同情したんだろう。先生は優しくなった。
「退院したら暫くは俺が保護者代わりになるよ。生活の目途がつくまで面倒みるから」
母が死んで黎子の病室には誰も来なくなった。緑ちゃんと先生だけだった。
毎日目に涙が溜まった。特に悲しいわけじゃなかった。手術の後遺症だったのかもしれない。暫く手も足も動かせなかった。緑ちゃんや先生がタオルで涙を拭いてくれた。
十五歳の春だった。先生に好きだと言うとその日から先生は黎子の恋人になった。
そのあと先生は黎子の担当をやめて他の患者にかかりきりになって病室にさえ来なくなった。
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