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バスに乗る。立秋先生から渡された乗車券には一番後ろの番号が記されていた。黎子が窓際で先生は黎子の隣である。
偶然を装って同じバスに乗ってきた川野奈々子が先生の隣に座って一時間が経つ。黎子はずっと窓の外を見ていた。雪が降り積もった山の景色は白くて目が痛くなる。
奈々子はピンクのダウンジャケットを着ている。彼女は鼻が詰まったような声で喋る。
「ずっと前から友達と計画してたんですよ」
先生が言う。
「友達退屈してない?」
奈々子と一緒にバスに乗り込んできた奈々子の友達は前から二番目の座席に座っている。水色のニット帽を被っている。
奈々子が嬉しそうに答える。
「大丈夫ですよ」
奈々子は爪にピンクのマニキュアを塗っている。黒いコートを着た先生の腕にその手を伸ばす。先生はそれを振り払う。
「だけど立秋先生、車持ってるでしょ? なんでバスに?」
「免停中なんだよ。スピード違反」
「先生って怖いもの知らずですよね」
奈々子は笑いながら黎子を見た。窓ガラスに映っている。奈々子が先生の腕を右手で触る。
「ロッジまで行くんですよね。バッグ見た感じじゃ泊まりだし。先生もスノボとかするんですか? 先生って何でも出来そう」
先生は答えなかった。
乗客の中で先生と黎子の二人だけが浮いた格好をしている。他の客は大抵ダウンジャケットを着ているけど二人は違う。
先月オーケストラのコンサートに行った。黎子も先生もその時と殆ど同じ格好である。
先生はスーツを着ている。ゼニアかプローサムのものだろうけど確か五十万ぐらいする。
先生はそういう馬鹿みたいに高価なスーツをクローゼットの中に沢山持っている。学会とか勉強会とかいうよくわからない会合が頻繁にあってそれに参加するには高価なスーツが必要らしい。黎子にはよくわからない。
黎子はダッフルコートを着ている。色は赤。黒いセーター、赤いスカート。ブーツは茶色、髪の毛は赤。バーバリーの服が好きだけど赤い色ならノーブランドでも構わない。
化粧は先生の恋人になった頃から始めた。彼に釣り合う人になりたいと思って化粧品と服を買った。少しだけ遺産を貰えたので口紅やファンデーションを買って試した。
化粧をすると変身出来る。特に目を作り込むと印象が変わる。
だけど先生は化粧をしないのがいいと言うので最近はナチュラルメイクを心がけている。元々ケバいのは自分も趣味じゃない。だけど香水は好きである。先生は香水に興味がないけど黎子は欠かさない。アクセサリーは嫌いである。特に銀製は肌がひりひりする。
よく眠るからか肌艶がいいことが自慢で先生も褒めてくれる。
雨の日は一日家で過ごす。先生も仕事が休みだと食事とトイレ以外はずっと寝室から出ないこともある。二人でずっとベッドの上に転がっている。
彼は本当に忙しい。いつも忙しくてあんまり寝てなくて疲れているのに黎子が望むとなんでもしてくれる。
セックスするようになったのは最近である。黎子が成人するまで先生は黎子の体には医者の範囲でしか触らなかった。先生はロリコンじゃないので黎子みたいな年の離れた子供と恋人ごっこをしなければいけないのは苦痛だっただろう。
二十歳になった途端手を出されてびっくりしたけど両親に死なれて路頭に迷う所だったのを先生は救ってくれたし元々好きな人だった。先生に必要とされることが出来てよかったと思った。
だけど体はともかく心はあまり成長してないので幼稚な黎子を毎日相手にしなければいけない先生の苦痛は終わってないのかもしれない。
コンサートではドヴォルザークの『新世界』の第四楽章がかっこよかった。
スメタナの『モルダウ』も綺麗な曲でうっとりしたけどアイスが食べたかったのに先生に駄目だと言われて嫌な気持ちになったことを思い出して不快になった。
先生は食事に興味がない。「美味しい」も「まずい」も言わない。毎日同じ物でも気にしないような人である。黎子の気持ちはわからない。
いつもわけのわからない本を読んでいる。ドイツ語で書かれているので解読出来ない。元々黎子には本は読めない。頭が痛くなる。
表紙でさえ文字しかない文字だらけの分厚い本を片手で持って読みながらもう片方の手でコーヒーを飲む。没頭すると机に肘をついてだらしない姿勢になって読書することを知っている。髪に手を突っ込んで猫背になる。
普段スマートな先生の堕落した姿を看護師達は知らないし川野奈々子も多分知らない。
苺とレモンが嫌いでメロンなら食べる。チョコレートは食べるなと黎子に言う。
黎子は本が読めない。字が読めないわけではない。小さな文字を沢山見ると目眩がして吐き気がする。目と脳に問題がある。
本が読めない黎子を不憫に思うのか先生はよく本を読み聞かせてくれる。
宮沢賢治やオスカー・ワイルドが好きで太宰治や村上春樹は嫌いだと言う。
黎子も宮沢賢治は好きだけどオスカー・ワイルドは嫌いである。『ナイチンゲールと赤いバラ』と『幸福な王子』の救いのなさに苦痛を感じる。
先生は実家が小児科の病院なので待合室で泣く子供をしょっちゅう宥めていたらしい。だから優しい本を沢山知っている。
文字だらけの小説は目が回るけど漫画なら読める。
先生がくれた童話みたいな漫画を気に入ってベッドのヘッドボードに置いてある。『メリーゴーランドに乗って』や『越後屋小判』という話があって何度読み返しても泣いてしまう。
黎子の髪は長くて傷んでいて枝毛が多い。髪を梳いてもよくもつれるので苛々して途中で櫛を投げてぼさぼさのままでいることが多かった。
シャンプーも適当にするので十円ハゲが出来たことがあって今は先生がシャンプーも髪を梳くのもしてくれる。情けないと思わないこともないのだけどなんだか疲れてしまってそれを恥だと受け止めて改善する為の努力をする気力が沸かない。
大きな飼い犬を洗うように上手に洗ってくれる。そんなだからたまに先生は黎子を犬か猫か赤ん坊かだと思っているんじゃないかと不安になる。
前に座っている大学生風の男に声を掛けられた。
「目はカラコンですか? 赤くないですか?」
男は茶髪で童顔である。振り向いて黎子の顔を見ている。底抜けに明るそうな顔つきをしているので絶対に気が合わない。彼は黎子に訊いたけど黎子は窓にくっついて外を眺めて答えなかった。先生が言う。
「アイラ、答えろよ」
「アイラ? へえ、可愛い名前ですね。どんな字ですか?」
先生が答える。
「あだ名」
黎子にアイラというあだ名を付けたのは飯塚緑である。黎子を担当していた読書家の看護師だった。
壁を作って周囲に溶け込もうとしなかった黎子を気にしてやたら世話を焼いてくれる優しい人だった。先生の恋人だった。
黎子が緑ちゃんから先生を盗ったから緑ちゃんは病院を辞めてしまった。黎子に優しくしたことを多分後悔しているだろう。
泣きそうになるのを堪えていると先生は大学生を見ながら言う。
「カラコンだよ。偏執狂なんだよ」
先生を睨む。先生は黎子を睨み返した。
先生は元々柄が悪い。小児科の医者をやるには高圧的過ぎる。だけど上品な美しい顔をしているので彼が微笑むと大抵の人は見惚れてしまう。子供ならなおさらである。
やや長めの髪が右目にかかっている。黎子を見て黎子の手を握る。だけど黎子は先生の向こう側にいる奈々子を見て先生の手を振り払う。
先生は自分の腕に絡む奈々子の腕を解くと立ち上がる。荷台から鞄を下ろす。バスの前方を見ると赤い屋根のロッジの駐車場に入っていく所だった。
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