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5
塗り絵をする。ジグソーパズルをする。知恵の輪を。オセロは一人じゃつまらない。
トマトと苺を切る。
インターホンが鳴ったので包丁を置いてエプロンで手を拭いた。
ドアを開けると玄関の外に緑ちゃんが立っていた。怖い顔をして黎子を見下ろしている。体が震えた。
「ごめんなさい、緑ちゃん」
寒い。悲しい。股間がじわじわと熱くなったあと一気に冷えた。
後ろで見ていた先生が黎子の腕を引っ張った。緑ちゃんを無視してドアを閉めた。
先生はタオルを使って無言で黎子の脚や股間から尿を拭い取る。
先生の小さなつむじを見下ろす。黒い髪の毛は柔らかい。その髪の中に手を入れて掻き混ぜる。この人の頭を見下ろせる日が来るなんて思わなかった。この人に憧れた。この人の頭を撫でられる日が来るなんて思わなかった。とても背が高くて大人で気さくで子供の黎子にも同い年の友達のように声を掛けてくれた。体に触らせてくれた。
先生はいつも黎子にかかりきりでいられるわけでない。
聴神経に腫瘍が出来た若い患者を受け持って放っておけば数か月で死ぬし手術しないわけにはいかないのだけど失敗すると聾唖にしてしまうなんていうストレスを溜めていたことがある。手術は成功した。先生は難しい手術を沢山執刀しているけど失敗したのは一度だけである。
黎子の脳腫瘍も完全に摘出してくれた。だけど脳に傷を付ける失敗をしてしまったので黎子は障害を負うことになった。高次脳機能障害というらしい。
だけど手術をしなかったら死んでいた。先生でなかったら手術をしても死んでいたかもしれない。腫瘍は全て取り除けたし植物人間にもならずに無事に生きているのだから成功に近い。忘れっぽいのと怒りっぽいのが今は一番の問題だけど多少生き辛くなっただけである。
「先生、人を殺したでしょ、男の人。冷蔵庫に死体があるの。昔私にいたずらしようとしたあの高校生ね。先生、いつ殺したの? なんで殺したの?」
「殺してないよ」
先生はその日機嫌が悪かった。
「それに元々はアイラがまた何もかも忘れてあのクソに懐いたからだろ。確かに殴りはしたけどあいつはあれでよかったんだよ」
先生が殴った高校生は肺気胸で入院していた。同じフロアに入院している子供のお尻を撫でるのが好きな変態だった。
多分先生は黎子のことをちゃんと好きである。
入院してから一年経つ頃には態度が少し違っていた。昼食はいつも黎子の病室で食べたし休憩時間にも黎子の病室に来た。
手術を失敗する前だから罪悪感なんかではない。恋愛感情なのかどうかわからないけど息抜きの時間を一緒に過ごしてもいいと思えるぐらいは黎子に好意を持っているのだと思った。
先生はいつも忙しそうだったけど時間がある日は黎子の病室に来て長い時間座っていた。話をした。二人きりでいることが恥ずかしくなって「散歩に行く」と言ってベッドから下りたら腕を掴まれて「ここにいろよ」と引き止められたことがあった。
その前後である。先生とは時間をずらして病室に来た緑ちゃんが先生は黎子に心変わりしたのだというようなことを言った。
「佑輔とは大学の頃から友達で私達は気が合うから絶対に上手くいくって説得して頼み込んで五年かかってやっと付き合えることになったの。でも佑輔は真面目だから本当に好きになるまでは手も繋がないよって。嘘みたいでしょ? だけど本当なの」
緑ちゃんは泣いていた。
「アイラは子供の癖に背が高くて大人びた所があって、辛い経験をしてるんだからひねくれててもおかしくないのに素直で可愛くて、盗られるんじゃないかってずっと怖かった」
緑ちゃんが好きだった。病室に来てくれるのは母以外には先生と緑ちゃんだけだった。緑ちゃんは優しかった。本やCDを沢山貸してくれた。お菓子を食べさせてくれた。母が来れない時は体を拭くのを手伝ってくれた。お姉さんが出来たみたいで嬉しかった。
夜中に廊下を走ったのはいつだっただろう。多分入院してすぐだった。宿直だった先生に怒られた。
段々凄く目が合うようになって先生の気持ちに気付いてからはとても慌てた。
だけどそれから間もなく最後の手術をして両親が死んだ。動転して喧嘩腰で話をしていると交際するという話になって先生は担当医でなくなった。
会いにも来てくれなくなって寂しかったことを覚えている。だけどあれは黎子の手術で自宅謹慎の処分を受けていたからだった。一週間ぐらい経つとまた頻繁に来てくれるようになった。
先生に大事にされればされるほど混乱した。先生みたいな人に好きになってもらえる人間じゃない。幼稚な感情しか持ってない。経験があるので先生を見て欲情することはある。だけど先生とはしたくない。元々恋愛なんか出来る人間じゃない。それに先生は憧れの人である。黎子には先生は手に負えない。最初からわかっていたことだった。愛されてもどう返したらいいかわからない。
先生が昼休みにパンを持って病室に来た時に提案した。
「やっぱり付き合うのやめようよ」
「なんで?」
「違ったの」
「何が?」
「私、先生が本気にするなんて思ってなかったの」
「俺を嫌いになったの?」
「そうじゃないけど」
「じゃあ別れないよ」
病院を脱走した。だけど何の連絡もしないのでは先生が心配すると思って先生に貰ったスマートフォンで病院にかけた。名前を言って先生に繋いでもらった。
『戻れよ』
「戻らない。お婆ちゃんの所を頼ってみようと思うの。だからもう会わないでおこうね」
『会って話そう』
「もう会わない」
『一回会おう』
「ごめんなさい」
電話を切って暫くしたら緑ちゃんから電話があって待ち合わせた所に先生がいた。
病室に戻ると緑ちゃんから聞かされた。先生が黎子の手術を失敗したのは先生が黎子を好きだからだと言う。
「医者だって感情のある人間だから手術室で好きな子の体を切って冷静でいられると思う? だから担当を外されたのよ」
次の日、緑ちゃんは黎子の点滴に細工をして黎子を殺そうとした。他の看護師が気付いて大騒ぎになって緑ちゃんは病院を辞めさせられた。故郷に帰ったらしい。幼馴染と結婚したらしいと先生が教えてくれた。
いつだったか覚えてない。どうしてあんなに取り乱したのかも覚えてない。遊園地か動物園かそういった娯楽施設だった。緑や赤の植物が大量にあった。
フクロウかコウモリを見て黎子は悲鳴を上げたり走り出したりして落ち着かなくなった。自分でもどうしてそうなったのかわからなかった。
先生は黎子をベンチに座らせて冷酷な目をして言った。
「大人しくするって言うから来たんだろ?」
「またあの薬? あれは嫌。体を動かせなくなるの。人形になったみたいになるの。手も持ち上げられないの。それに嫌な夢を見る、凄く嫌な夢。死んだ方がまし、まし。私は叫んだりしないでしょ? 元々体力がないもん」
薬を打たれてぐったりして目を閉じると涙が落ちた。呟く。
「先生なんか嫌い」
レストランから部屋に戻るとすぐに風呂に入ってパジャマに着替えて眠った。
夢を見て目を覚ますと窓の外はまだ暗かった。枕元に置いたスマートフォンを見ると一時前である。
ベッドルームとリビングを区切るドアは開いたままになっていてソファーに座っている先生が見える。ゼニアかプローサムの黒いスーツを着ている。ネクタイは最初からしてない。水が入ったペットボトルをテーブルに置いてノートを開いて勉強している。テレビはついてない。
今は窓の外の吹雪の音が子守唄に聞こえる。目を閉じた。
それからどれぐらいの時間が経っていたのかわからない。先生がベッドに上がってきて黎子が被っていた布団を剥いだので目が覚めた。
先生は黎子の脚を掴んで黎子のパジャマのズボンを脱がせた。黎子の下着を剥ぎ取る。先生の髪を掴んだ。
「やめて」
先生は黎子を見上げて言う。
「脚、開いて」
「明日は式だよ」
「うん」
先生がズボンのベルトを緩めるのを見ながら諦めて脚を開いた。逃げる体力がなかった。
先生は黎子のお腹を見て撫でる。黎子のお腹は膨れている。
「安定期に入ったから、ちょっとぐらいいいだろ?」
先生は顔を上げて黎子の目を見る。
「嫌ならやめるよ」
抱き締めてキスをした。
エレベーターは背面がガラス張りだった。駅前の賑やかな景色を見下ろせる。
目的地は二十三階にある料亭で、偉い先生達が沢山集まる会合が七時から行われる。
奥さん同伴だというその会合に先生は黎子を誘ってくれた。婚約者だと紹介すると言う。
エレベーターは怖いほど高速で急上昇するので脚が震えた。故障して落ちたら間違いなく死ぬ。先生の腕にしがみついた。
料亭の広い座敷の中央には黒い大きなテーブルがあった。その上には刺身や天ぷらやフグの鍋が並んでいる。
先生が黎子を婚約者だと紹介すると偉い先生達やその奥さんの視線に遠慮がなくてなんだかモルモットになったような気持ちがした。
先生の隣にはいつの間にか芸者が座っている。
先生の目を盗んで黎子を馬鹿にして笑うその芸者に腹が立ってトマトジュースを芸者の頭に掛けた。そうしたら先生に怒られて悲しくてどうしようもなくて泣いた。
自分は社会性がない。周りに合わせられない。気に入らないことがあると大声で泣き喚く子供そのもので自分だけでなく先生にも恥を掻かせているとわかっているのに涙が止まらない。しゃっくりが止まらない。悲しみを抑えられない。
廊下に出て別の小さな座敷に先生と二人で入った。座布団があるだけでテーブルはなかった。愚図る黎子をずっと先生が慰めてくれるので気分が良くなってセックスした。
この旅行は結婚式を挙げる為である。二人だけで式をする。入籍は済んでいる。だから名前だってもう立秋黎子である。
ドレスを着たいと言った黎子の為に先生が用意してくれた。泊りがけで二人で旅行に来れたのはこれが初めてである。
深夜の三時を過ぎている。どうしても目が冴えた。
テレビをつけてみたけど殆どのチャンネルは既に番組が終わっていて見られるのはニュースぐらいだった。つまらないので消そうかと思ったけどキャビネットにDVDがあるのを見つけて『アイアムレジェンド』を見た。
落ち込んだ。横で寝ている先生が何度か目を覚まして黎子に「寝ろよ」と言ったけど寝られなかった。
たった一人だけ生き残って世界中に他に誰もいないというのはどれぐらい怖いだろう。不安になって途中で何度も先生の肩や髪や手を触って安心した。
「一人にしないでね」
黎子が言うと先生は「うん」と寝惚けた声で言った。
喉が渇く。自販機が一階にあった筈である。廊下に出るとすぐ近くにある緑色の非常灯を眩しく感じた。
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