パラノイド

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     1  ロビーは消毒薬と血の匂いがした。  黎子(れいこ)が入院する前日、父と母は大喧嘩をした。喧嘩は珍しくなかったけど父が家を出ていって朝まで帰らなかったのは初めてだった。  だから母が車を運転して黎子を病院まで運んだ。病室で黎子がパジャマに着替えるのを手伝いながら母は父と離婚すると言った。  母はすぐに帰ったので担当医が来た昼過ぎには病室には黎子一人だった。 「こんにちは」  黎子に挨拶をするその担当医はネクタイをきちんと締めていて黒いズボンを穿いていた。白衣を着たその医者は若くて優しい顔をしていた。綺麗な顔だった。  背が高いし脚が長くてテレビで見る流行りの俳優よりもかっこいい。だけど一目で恋に落ちたりしない。そんなに単純に人を好きになったりしない。  医者は立秋(たてあき)と名乗った。  黎子は十三歳である。四月生まれなのでもう十三だけど二か月前にはランドセルを背負って小学校に通っていたような子供である。  保護者がいないので看護師は戸惑っていたけど立秋先生は何も言わなかった。彼はにこにこした人で愛想がよくて黎子の目を見て黎子を一人前の大人か同い年の友達のように扱ってくれるので気分が良かった。  一目で恋には落ちなかった。だけど毎日会うし診察をしてくれる。声を掛けてくれる。気付いた時には前の自分が何を考えていたのかわからないぐらい立秋先生のことばかり考えていた。一度夢に出てきただけで意識してしまうようになったのだから単純である。  だけど恋人になりたいなんて考えたことはなかった。自分が彼を手に入れられるとは思えなかった。  黎子は子供だし病院の中だけでも彼の周りには大人の綺麗な女の人が大勢いた。  病院の女性職員は用もないのに立秋先生目当てに小児外科にやたら顔を出す。  ミーハーな患者や得体の知れない女性達が彼の後ろをついて回るのをしょっちゅう見かける。そんなだから同性には嫌われそうなのに飄々とした性格で誰とでも器用に付き合うし実際に誰からも好ましく思われている辺りも黎子の手には負えない気がした。  立秋先生は黎子に優しかったけど入院している他の大勢の子供達にも同じように優しかった。黎子は先生にとって他の大勢の子供と同じだった。  母は殆ど毎日見舞いに来てくれた。  黎子は父から虐待を受けていた。ずっと前からである。嫌だと言うとお前は馬鹿だしどうしようもない不細工で愚図だと罵られて殴られたり蹴られたりした。痛かったし悲しかったし怖かった。嫌だと言うと父は途端に冷たくなって怖くなって鬼のように黎子を追いかけ回したけど父の言う通りにしている間は優しかった。だから父の機嫌を伺いながら父の言う通りにしていた。  母には言えなかった。母が傷つくと思った。だけど倒れて病院に運ばれて病気と妊娠が判明した。母を酷く傷つけてしまった。  父方の祖父は癌で死んでいるらしい。だから遺伝なんだろう。  黎子は頭に癌が出来て病院からもう一生出られなさそうである。死期が近い黎子を父は見捨てたんだろう。見舞いに来ない。  長かった髪は手術の為に切った。入院した日の午後に年配の看護師が鋏とバリカンで黎子の髪の毛を全部持って行ってしまった。今は丸坊主である。代わりにピンク色のニットの帽子をくれた。頭が寒いのでいつも被っている。  入院してからひと月経った頃である。昼過ぎだった。黎子は目を閉じていたけど寝てなかった。母は診察に来た立秋先生に言う。 「父親が連れ帰りに来ても娘に会わせないで下さい。お願いします」  母は泣いていた。  低空で飛行機同士がぶつかって爆発する夢をよく見る。本当に低い位置だったので飛行機の破片や炎や人の遺体がばらばらと降ってきて恐怖で失神して目が覚める。  次の日診察に来た立秋先生に訊いた。 「お母さん、先生に何か言った?」  先生は黎子に体温計を渡した。黎子はそれを腋に挟む。先生はベッドの横の椅子に座って白衣のポケットからボールペンを出した。脚を組んでバインダーに挟んだ紙に書き始める。 「今日は会ってない」 「昨日」 「寝たフリしてただろ」  先生がどこまで事情を知っているのかわからない。だけど何も知らないわけはないんだろう。ほんの少し前に堕胎手術を受けたことぐらい当然知っている筈である。大体黎子の担当の看護師が付けたアイラなんていうあだ名だって虐待小説の主人公の名前だと別の看護師達が話していたのを知っている。 「昨日も夕食残したって聞いたけど」 「おから嫌い。レバーも。スポンジみたいなあの豆腐も。お肉も卵も。ししゃもって気持ち悪い」 「今まで家で何食ってたんだよ」 「アイスクリーム。お母さんが買ってきてくれるやつ。私三食アイスでもいいよ」 「その偏食直さないと病気治らないよ」
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