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普段なら旅館の仲居など気にもしないがその時は違った。
女が入ってきたとき空気の質量が全身にのしかかったような、時間の流れが止まったかのような、そんな錯覚にとらわれる。
茶を差し出す指先がざらついていた。冷たい水で何度も何度も洗われた働き者の手。女がはっと顔を上げ視線が真正面からぶつかった。
黒い闇に吸い込まれるかと錯覚するほど美しい目だと思った。
俺は女の眼の奥を覗き込む。
その痩せた身体と似つかわしくないほど、強い意志を宿していた。野心に渇望、だが他にも複雑な感情が混沌と混ざり合っている。
俺は知らず女の方に身を乗り出し、胸元から金鎖が零れ落ちた。
びくりと女の身体がはじけ、同時に俺の心もびくりと連鎖的に反応する。
今度こそ互いの視線がねっとりと絡み合った。
はあ、と女はため息をつき、ようやく俺は息を止めていたことに気が付いたのだった。
「……お、お待たせいたしました」
「いや、待たせてしまったのは俺の方だ」
美羽の差し出した茶を飲んだ。
早春の香りに気が付いた。
床の間に飾る黄色い水仙の香り。
目の前の女のような、素朴な風情、今生の、ひっそりと咲くことしか知らない俺の女。
「これは野生の水仙なのですよ、良い香りで春を知らせる花ですから……」
退席する美羽の姿を目で追った。
この旅館はじきに取り壊されることになるだろう。
この旅館跡地は海外からのセレブを呼び込む高級リゾートホテルを建設する予定である。俺の脳裏には和食レストランであでやかな訪問着姿で、海外の要人を女支配人として笑顔で迎え、多くのスタッフを従える美羽が浮かぶ。
こんなひなびた地で贅沢もできず日陰の雑草のように生きてきた女は女支配人として君臨する。俺の提示する成功への降ってわいたチャンスを美羽は嬉々として呑むだろう。
もしくは女支配が好みでないのならば、旅館を別に建設し、経営を他の者にまかせ、優雅に若女将となるのもいい。
より洗練な雰囲気をまとうために、立ち居振る舞いの専門家による訓練も必要になるだろう。
人生経験を積ませるためにより多くの経験させなければならないだろう。
老舗と呼ばれる料亭や旅館を一流というものを肌で知る必要があるだろう。
海外のセレブたちを相手と対等に渡り合うため必要な時間と金はどれぐらいか。
三年?五年?
たとえ十年かかったとしても、俺は時間も金も惜しむことはない。
こんなに投資することが楽しいと思えることはない。
腹の奥からわき上がるぎらつく熱いものが出口を求め、俺の身体も心もざわついた。
頭や腹に、若さよりも貫禄を誇るようになった俺が、雄叫びをあげながら走り出したいような猛りをみぞおちに抱えている。
それは、歓喜とでも名付けられるようなもの。
妻にも他の女にも感じた事のないほどの熱情が俺を支配する。
とうとう俺は、本当に、探し求めていたものを見つけたのだ。
床の間の水仙は俺の手で大輪の見事な薔薇になるだろう。
時間はまだたっぷりとある。
今生もまた、深く愛し合うのだ。
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