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 客と目が合った途端、心臓が走り出し、手が震え茶をこぼしそうになった。  張り出した腹をスリーピースの高級スーツに身を包む、世界を市場にしてビジネスで成功したもの独特の傲慢さで、初対面の相手を委縮させる。  男にも、男の胸ポケットからこぼれる金の鎖にも、見覚えがあった。  外見は違えど受ける印象は同じ。  わたしの夢に、子供のころから繰り返し現れるこの男は、不動産土地開発コンサルタント会社を経営する一条史彦と名乗った。  会合の後、二日も開けず男は今度はひとりで再訪する。  目当てはわたしであることを隠さない。  開発を進めるのも取りやめにするのも自分次第だとにおわせる。  この男、一条史彦に妻子がいることは既に確認済みである。 「新ホテルの核となる優秀な人材を募集しているのだが、美羽くんも参加しないか?」 「……わたし、ですか」 「君が推薦する人がいるのなら、一緒に採用してやるが」  若くも美人でもないのにどうしてあんたが気に入られているのよ、と同僚の視線が突き刺さる。  沈みゆく船に男が手を差し伸べるのは他の誰でもない、わたしなのか。  夢の中で、何度でも、男はわたしを見いだしてきたように、今回もまたそうなのか?  わたしはこの時が来ることを予感していたのではないか。  悪夢が、現実に追いつく日を。  夢の中でこの男は執念深く執着し、呼吸さえも管理した。  一度でも男の手を取ってしまえば、夢の中のわたしのようにその後の逃亡は不可能なのだろう。身体も心も男の思う通りにねじ曲げられ、毒々しく飾り立てられ、男の横でトロフィーのようにSNSに晒されるだろう。  実のところ、価値観が多様化した今、金や名誉やブランド品にまったく興味がわかなかった。  自然を感じる里山で平穏に日々を過ごすことがわたしの心からの望みだった。  都会を離れ寂れた漁村の旅館で働くのを選んだのも、日本の昔ながらの生活が落ち着くから。決して失ってはならない日本の心だと思うのだ。どこの海辺も同じ景色にするリゾートホテルなどこの漁村には不要だった。  自分の価値観をなすりつけ満足するような独善的な愛は、愛ではない。  悪夢の男との悪縁を、自分の意思で未来が切り開けられる今、永遠に断ち切らねばならない。  だから悪夢を、悪夢の男を過去へと葬り去るのだ。  雪を割って伸びる黄色の水仙を葉ごと手折った。  葉だけみればニラとよく似ている。  数年に一度、山菜採りに来た都会人が水仙とニラを取り違え中毒死するのがニュースになるが、このあたりに住むものは絶対に間違えることはない。水仙にはニラ独特のにおいがないからだ。  わたしは男に出される予定の山菜の籠の中の収穫されたばかりのニラの葉の中に紛れ込ませた。絶対に間違えないものをあえて確認する人はいない。  カエンタケは今の季節ではないから使えない。  スズランの花、トリカブトの花が咲く場所は……。 前世の女 完
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