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とある田舎にある日本家屋。
そこが、現在の私の住処だった。
周囲からは、ここは大きな屋敷に見えるのかもしれない。
しかし、この築百年を超える古い日本家屋には、いろいろと不満はあった。
すきま風が吹き込んで、夏は暑く、冬は寒い。
水回りの古さ。
そして、見えないところではカビや小さな生き物の住処と化していた。
けれども、年金暮らしの高齢者である私には、ここに住む以外の選択肢はない。
そんな、屋敷にもいいところはある。
その一つが広い庭だ。
もちろん、まったく手入れはされていない。
そのため、荒れ放題なのだが、それがまたいい。
どこかの原生林のように私の屋敷を覆い隠して、周囲からの視界を遮ってくれる。
私はその庭に安心感を寄せていた。
周囲からの目。
田舎ではそれがまた強い、と思う。
それから守られるような、そんな感情を私は庭へ抱くのだ。
そんな私の庭には、誰にも見せられないものがある。
私は毎朝、日の出前に目が覚める。
そして、耳を澄ませる。
廊下を渡る風の音、襖の軋み、畳の下で腐りゆく床板のささやき。
そして、天井裏にいる小さな生き物が動く振動。
この家ではあらゆるものが音を立てるのだ。
最近になって気づいたことがある。
それら音の響き方が、少しずつ違ってきているような気がするのだ。
まるで、家そのものが何かによって侵食をされているかのような。
とはいえ、ここは古い家屋だった。
私が死ぬまで持つだろう。
そう思うことにしていた。
私が、この家で独り暮らしを始めてから、十数年以上が経つ。
妻が亡くなり、祖父の代から続く店を畳んでからは、これまでの蓄えと年金が頼りの生活だった。
そして、その間、私は人との接点を持たず、ただそれを育ててきた。
今の私の楽しみは、それしかなかった。
それは、ある時だった。私は発見したのだ。
その時の庭には、草木はまだ、今のように育っていなかった。
だから、土壌の様子がまだ見えた。
ふと気がついた。
土の中から覗いていた紫がかった光沢のある何か。
掘り出そうとしたが、それは地中深くまで伸びていた。
その植物のような、しかし形容しがたいもの。
興味を持った私は、始め、水を与えた。
しかし、ある時に気がついた。
その茎のようなものは動くのだと。
もしかしたら、食虫植物なのかもしれない?
それは捕食していた。
紫がかったそれは、俊敏な様子で土壌に昆虫を引きずり込んだのだ。
それを見た私は、興味を覚えた。
そして、与えようと思った。
昆虫。
しかし、そのようなものはない。
試しに、私は手元にあった、ビーフジャーキを置いた。
私が置いた直後は、どこか警戒をしているようで、何も起こらなった。
しかし、私が距離を置いたとき。
これまでと同じように、それは俊敏に絡めとり、土壌へと引きずり込んだ。
それから、私は毎日、肉を与えた。
やがて、それは徐々に大きくなった。
茎のような触手ような。
それらは太く、増えていった。
いつからだろう。
きっと、最初はネズミから始まった。
屋敷には、それらはいなくなった。
そして、次は猫だった。
裏山から下りてくる野良猫が消えていく。
次に野犬。そして…。
思い出す。
しかし、その記憶はどこかぼんやりとしていた。
そして、どこか違和感があった。
それは他人の記憶を覗いているかのような、奇妙なもの。
もう私も高齢だ。
病院に行くべきなのかもしれない。
そして、診断を受けるべきなのかもしれない。
しかし、私はここを終の住み処とすることにしていた。
だから、この身が枯れ果てるまで、この屋敷にいようと思った。
ある時。
気がついた。
最近は自分でも肉を食べなくなった。
いや、それどころか、いつからだろう。食事の記憶がない気がする。
しかし、空腹も感じない。
それが当たり前のように思えている。
その間にも、それは確かに成長した。
私の愛情を受けて、日に日に大きくなっていった。
紫の脈管は今でも庭全体に広がり、壁を這い、私の屋敷の天井裏にまで届いている。
客間の床下では、畳を押し上げるように瘤のような塊を作っている。
その下で、何かが脈打っている。
だが、ふと気がつくと、その色合いが違う時がある。
昨日までエメラルドグリーンだった気がするのに、今日は紫色をしている。
いや、昨日から紫だったか?
それとも、始めから紫だったのか。
ふと、ある時。屋敷の整理をしていた。
そのとき、仏間の箪笥から古いアルバムが出てきた。
そのアルバムにあった写真には、十数年前に亡くなった妻が笑っていた。
隣には私がいて、妻と一緒に微笑んでいる。
その写真の中。
奥には庭が写っている。
そこには紫色の蔓のような…。あれが写り込んでいた。
だが、妻が生きている、ということは十数年前の写真のはずだった。
私がそれを見つける前の。
写真の中の私は、今の私と同じ表情をしている。
同じ皺の寄り方、同じ目の濁り方。
まるで、現在の私が過去の写真に紛れ込んだかのように同じものだった。
私の指は紫色に変色している。
これまで、餌を与えるときに、あれに触れすぎたせいだと思っていた。
だが、今朝、風呂場の曇った鏡で、古い傷跡を見つけた。
腹部から胸へと走る古い手術痕のような跡。
いつできたものだろう?
その下を、何かが蠢いている。
覚えていない。
鏡に映る顔。体温を感じなくなってきた。
心臓の鼓動すらも。
それなのに、この体は動き続けている。
昨夜、初めて声が聞こえた。
何か深いところから響くような低い唸り声が。
いや、声は昔から聞こえていたような気もする。
私の中で、何かが目覚めようとしている。
記憶を残すために、この手記を書いている今も、私の皮膚の下で何かが蠢いている。
それは私の血管なのか、それともあれから伸びる何かなのか。
脈を取ってみる。
利き手の反対側の手首に指を当てた。
今の私に脈はなかった。
ただ、よく考えてみれば、今の私は呼吸をしていない。
食事も、睡眠も、体の温もりも、全て存在していない気がする。
それなのに、私は在り続けている。
その奇妙な事実を、私はどこか他人事のように受け止めていた。
おそらく、もはや感情が朽ち果てている私には、もはや驚きも恐れも出ないのかもしれない。
ただ淡々と、これからも変わらぬ日々が続くのだと分かった。
そのことに気がついたときも、庭では、何かが脈打っていた。
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