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「早く帰った時ぐらい、俺がやるよ」  來人は最近、家事をやりたがる。そんなに器用な方ではないが仕事は丁寧だ。 「ありがとう。気持ちは嬉しいけど、鍋を焦がしちゃう人に任せるのは心配だな」 「まだそれ言うの?」  來人はむくれた。鍋がと言うより火の元が心配だ。 「俺だって、紫乃さんの役に立ちたいんだよ」 「わかったよ。今度一緒にやろうな」  でも、僕は來人の変化に嬉しくなる。あんなに頑なだった彼が、こんなふうに甘えてくるなんて。こちらが受け止めてあげれば、誰だって安心して相手に向き合えるのだと改めて思う。 食後にワインを飲みながら、僕は渓くんの話をした。來人は21だけど、酒には弱くてすぐに酔っ払ってしまう。今もとろんとした目で僕の話を聞いていた。 「紫乃さんてカッコいいよな。紫乃さんが担任だったら、俺もこんなにひねくれなかったのに」 「ありがとう。僕は、ただ臆病なだけだよ」  集団からはみ出した自分を守っているうちに、個性を尊重することに行き着いた。それがたまたま進路決定の時期に、保育士の理念と重なっただけで。だからそう言われると少し恥ずかしい。 実際、僕は怖いんだ。 好実先生のあの自信に満ちた一般論が。 『彼女には何度か注意してるんだけどね』  ため息混じりに主任がこぼしていた。 『まあ、色んな意見がありますからね。それでもまずは、気持ちに添うことが必要かなと思いますけど』  僕はやんわりとそれだけ伝えたが、そんなことは主任だって百も承知のはずだ。同業の友人でも同じような経験はよくあると聞く。 自分を正当化しようとは思わない。むしろ、好実先生のあの目でじっと見られると、僕の中で何かが(ひる)む気がして、自分の言動が正しいのかどうかわからなくなる。無意識のうちに根付いている思い込みや常識が怖くなるのはそういう時だ。知らないうちに、自分も誰かを傷つけていないだろうかと不安になってしまう。 「紫乃さん。俺、眠い…」 「もうこんな時間か」  程よく酔いも回ったところで、僕たちはひとつしかないベッドに潜り込む。初めの頃、部屋の片隅で毛布にくるまっていた來人は、ある朝起きたら僕の隣で小さく丸まって眠っていた。僕のスウェットの裾をお守りのように掴んでいて、そっと前髪に触れると、來人は寝ぼけてふふっと笑った。誰かの温もりに愛おしさを感じるのは、僕も久しぶりだった。 明かりを消すとすぐに來人の寝息が聞こえてきた。来月の発表会に向けての練習が始まることを思い出して、少しだけ憂鬱になる。これから風邪も流行り出す忙しない季節だ。それでも僕を癒してくれる彼らのおかげで、今年も乗り切れそうだ。 瞼を閉じたところで、どすんと胸に圧迫感を覚えた。茶トラのぽん吉が定位置とばかりにのしかかっている。 「ぽんー、重いよー」  敵もふてぶてしく可愛い声で甘えてくる。時々悪夢を見るのはこいつのせいなんだ。僕はさりげなく横向きになり、ぽん吉を布団の中に入れてやった。ふかふかの湯たんぽと自分よりも大きな子猫に挟まれて、僕は眠りに落ちていった。
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