マッチを擦って、立ち込める

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 柴崎さんが男子更衣室の前で呆然としていた。  ビルの3階にあるレストランでのバイトを終え、私は女子更衣室を出たところだった。  普段は平日深夜のシフトに入ることが多いけれど、今日は頼まれて土曜日のランチ帯に入った。だから、こんな風に珍しい場面に出くわしたのだろう。 「何してるんですか?」  私が訊ねると、柴崎さんはこの世の終わりみたいな顔で、 「ライター失くした」 といった。  柴崎さんはフリーターで、同じレストランで働くバイトの先輩だ。私はホール、柴崎さんはキッチン。平日は私と同じく深夜に働いてるが、土日は今日みたいにランチのシフトに入ることが多いらしい。深夜シフトのメンバーは割と仲がよくて、柴崎さんのことももちろん知っている。仕事ができて、気さくで、頼れる人だった。 「タバコですか? そういえばヘビースモーカーでしたよね」  今時珍しいから柴崎さんのヘビースモーカー情報は覚えていた。 「下の薬局かコンビニに売っているんじゃないですか?」  私が言うと、柴崎さんは顔をしかめる。 「買いに行っているヒマがないんだよ」 「時間ないんですか?」 「次の仕事までの僅かな合間を縫っての喫煙なんだ。喫煙所が遠いからタイムロスが許されない」  このビルにある唯一の喫煙所は3階の端っこにある。従業員用は廃止されてしまったらしい。レストランと同じ階ではあるものの、隅の隅。全ての店から遠いところにひっそりと存在している。 「わざわざライター買ってたら遅刻なんだよね」  じゃあ、吸わなければいいんじゃないですか? そう言いたいところだったけど、その言葉は通じないことを私は知っていた。 「マッチなら持ってますよ」  私は自分の鞄の中からポーチを取り出すと、柴崎さんに見せた。 「なんで?」  柴崎さんは目をまんまるにしてマッチを見つめる。 「なんでマッチなんか持っているの? まさか、放火魔なの?」 「そんなわけないでしょ。飛躍しすぎですよ」 「じゃあ誕生日?」 「なんでそうなるんですか?」 「ケーキのロウソクに火をつけるのかなって」 「誕生日だとしても、マッチを持ち歩いてまで他所でケーキのロクソクに火をつけませんよ。あれは家でつけるものです」 「でも、マッチ持っている人なんている?」 「ここにいます」 「だから、なんで持っているの?」 「それは秘密です」  柴崎さんは眉間にしわを寄せる。 「怪しいな」 「マッチ一つで怪しがられて、ひどく不愉快です」  私はマッチをポーチに戻した。 「マッチ、いらないんですね」 「いります! ごめんごめん! ごめんなさい!」  私はついついほくそ笑む。  バイトではいつもキレキレで仕事をこなす超有能な柴崎さんが慌てふためくなんて、かなり貴重な姿だった。 「じゃあ、喫煙所までお供します」 「なんで?」 「タバコに火をつけたらマッチをすぐに返してほしいからです」   大切なマッチ箱をまるまるさしあげる訳にはいかない。返してもらうにも、次いつ会うかわからない。 「それはそうか。わかった」  私と柴崎さんは並んで歩き出した。今日の店長の仕事っぷりとか、そんな他愛のないことを話しながら。 ★  喫煙所はガラス張りで、個室みたいになっている。ちょうど空いている時間なのか、利用者は誰もいなかった。  柴崎さんは私のマッチをうけとると、ガラス張りの扉の向こうへ入った。ガラス張りなのでその姿は丸見えだ。タバコをくわえて、マッチの箱をスライドさせて、一本取り出した。  私は柴崎さんを凝視していた。ガラスの向こうで少し気まずそうな顔をしながら、軸を指で摘んで、慣れた手付きでマッチを擦った。あちらとこちら、隔てられているはずなのに、火がついた瞬間硫黄の匂いが立ち込めた気がした。 (気のせいだよ)  胸が痛いのは気のせいだ。  そのとき、柴崎さんがマッチを返すために少しだけ扉を開け、こちらに手招きをする。 「ありがとう」  呼ばれるままに近づいた私に笑顔を向け、扉の隙間からマッチ箱を差し出した。 「お役に立てて光栄です」  私はマッチ箱を受け取る。 「もう少し吸っているところ見ててもいいですか?」  柴崎さんは驚いて私をじっと見つめた。 「なんで見るの?」  それは見ていたいからだ。柴崎さんがタバコを吸うところを。  そんなことは言えるはずもなく、柴崎さんに見つめられすぎてだんだん動悸がしてきた。 「嘘です」  私は急いで会釈をした。 「お疲れ様でした」  そう言うとくるりと背を向け、柴崎さんの顔を見ることもなく、その場を逃げるように去った。  柴崎さんはきっと、私を変なやつだと思いながら一服しているに違いない。絶対に気持ち悪いと思ったはずだ。次に会うときどんな顔をすればいいんだろう。 (どうしよう) ★   次に柴崎さんと会ったのはひと月後だった。やっぱり土曜日の夕方、更衣室を出たところでばったりと出くわした。 「あの時はありがとうね」  目が合うなり、柴崎さんが言った。いつも通りの笑顔と気さくさで気まずくなんてならなかった。 「ライター見つかりました?」    私もホッとして、気楽に質問を繰り出してみた。 「ああ、まあね」 「今日も喫煙所いくんですか?」 「いや、やめることにしたんだ」  やめる、という言葉が頭の中でぐるりと回転した。 「何をやめるんですか?」  今日、喫煙所にいくのを?  まさか、バイトを?   首を傾げる私を見て、柴崎さんが苦笑いをしている。 「タバコ、やめるんだ。奥さんが妊娠したから」  衝撃の事実に頭を殴られた気がした。 「ーー結婚してたんですか?」 「してたよ。一昨年に」 「……知らなかった」 「この前の失くしたライターはお腹の赤ちゃんのために奥さんが隠したんだって」 「はは、なるほど」  殴られて尚、私は平常心であることを装いたい。装いたいがためにヘラヘラと笑ってしまう。 「それでさ、なんでもマッチ持ってたの?」   柴崎さんは私の気も知らず、こちらの顔を覗き込む。どうやら謎を解きたいらしい。 「あれは父の形見なんです」  本当は秘密でもなんでもないから、私はペラペラ喋りだした。 「父もヘビースモーカーでした。柴崎さんのと同じ銘柄の吸ってました」  焦りなのかなんなのか、口が動いて言葉が止まらない。 「タバコは嫌いでしたが、マッチは好きでした。マッチでつけたほうがタバコが美味いって父は言うんです。馬鹿みたい。でも、マッチを擦るのを見るのが好きで、いつも見ていました。タバコに火がついたら一目散に逃げていました。だから、久々に誰かが火をつけるところを見たくて」 「そっか」  柴崎さんは頭を掻いた。 「喫煙所であんまり見てくるから、俺の事好きのかもって勘違いしそうだった。そっか、父親かぁ」  柴崎さんが、また苦笑いをこぼした。 「柴崎さんは長生きしてくださいね」  そう言ってみて、胸がヒリヒリ痛くなる。 柴崎さんは、父とは似ても似つかない。  父は、母とも仲が悪かった。タバコの匂いだけ残して、家にほとんどいなかった。  兄や姉には学費を出したのに、私には出してくれなかった。上二人に使ってしまったから、お前のぶんはない、と言われた。  母には仕方のないことだと言ったらしい。だから私は学校のあと、深夜までアルバイトをする。自分のために。   それなのに、私は今も、マッチを擦ったときの匂いを探している。  父が私に残したのはマッチ箱1つだから。  (勘違いですよ、柴崎さん)  タバコを吸う人は好きじゃない。タバコの匂いはやっぱり父の匂いで、私は恋にたどり着かなかった。 (それでよかったんだ)  結婚していたし、赤ちゃんも産まれるらしいから。 ーーこいつは既婚者だ。やめておけ と、亡き父が教えてくれたのだろうか。  いや、たまたまか。  父にそんな甲斐性はない。そんな気がする。 火がつく前に、ニセモノの片思いは白い煙になって消えてしまったのだ。  傷つく前に、痛いほどに懐かしい匂いだけを残して。 
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