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「ルイス、こんなところにいたのね」
少し赤みがかった真珠のようなドレスをふわりと翻しながらロミがルイスに駆け寄った。
「お嬢様、今は弦楽のお時間なのでは?」
「ルイスはいつも堅苦しいのね。私はルイスが手入れしてくれたこの庭にいる方が好きなのよ。社交界だなんて大嫌い。お見合いはもっと嫌い。同じ年頃のルイスならわかってくれるでしょう?」
「私には分かりませんよ……。私はロミお嬢様のお父様に雇っていただいている庭師ですから。」
「前に私がパーティにから抜け出してきた時、あなたのお父様も同じことを言っていたわ。」
「うちは、ハドソン邸の庭師なので。きっと似るんでしょう」
「そうなのかしら……。あなたは嫌にならない?生まれに囚われて全てが決まってしまうこと」
「ただ風邪を拗らせて死んだ父の跡を継いだだけなので何も。私は枝の剪定などをしておりますので。お嬢様も早くお戻りになられてください。使用人の方々がきっと屋敷内を探し回られていますよ」
「もう、つれないんだから」
ロミが屋敷の方へと踵を返すのを見届けたルイスはビバーナムスノーボールの枝を切り始めた。
パチン、と乾いた音が庭園内に響く。
二年前は、ハドソン邸の庭園にはいつもルイスと父のデヴィズの姿があった。
「父さん、薔薇は蕾をつけていましたよ。今年も綺麗に咲くことでしょう」
「そうか、すまないな。手伝わせてしまって。お前には違う世界を見せてやりたいんだが」
デヴィズはいつもルイスに謝っていた。
「母さんがいれば、お前ももう少し幸せだっただろうに。ごめんな」
「僕には、父さんがいれば十分です。父さんのような庭師になりたいんです」
ルイスがそう言うと、デヴィズはキャスケットを被りなおして別の花の手入れを始めてしまった。
黙々と植物に向き合う父の大きな背中が、ルイスは大好きだった。
広すぎる庭園をルイスはバケツに汲んだ水と枝切り鋏を持ちながら歩いて回った。咲き誇るカモミール、一際目を惹く鮮やかなエリカ。陰鬱な霧に閉ざされた、階級制で薄汚れた国には似合わない清廉な花が彩る庭にたった一人。
(お嬢様が好きだと仰っていたガーデニア…。確か東の国が原産の花だが次の春も咲いてくれるのだろうか)
ロミが白く輝く花弁がウェディングドレスのようだと言っていたその花に、ルイスはいっそう愛を込めて接している。乾燥が苦手な花なので、今日もたっぷりと水を与えた。
「ルイス。娘を見とらんかね。あの娘はウィリアム家の嫡男に嫁がせるため教養を仕込まねばならんのだ。だというのに毎日のように庭園で現を抜かしよって」
「オリヴァー子爵、お嬢様でしたら先ほど屋敷の方へ戻られました」
「ふぅむ、そうか。わかっているはずだが、お前の父デヴィズが優秀な庭師だったからお前も雇ってやっとるんだ。お前はただ私のコレクションたちを毎年、決まった時期に咲かせればよいのだからな。余計なことはしてくれるなよ」
主人であるオリヴァーが自身の髭を撫でながら言い捨てた言葉の意味をルイスは反芻した。
***
五月、オリヴァーの一番のお気に入りである薔薇とともにガーデニアが咲いた。
(春は、いい。暖かくて、多くの人が花を愛でる。陽の光も柔らかい)
こつこつ、という石畳と靴底がぶつかる音をルイスの耳が拾った。
「お嬢様、今年も咲きましたよ。ガーデニア」
「ガー…何?この白いお花のことかしら。素敵ね。まるでウェディングドレスのよう。毎年咲いていたの?」
「今日は私を驚かせたい気分なのですか?全く、冗談がお上手なことだ」
「違うわよ、ルイス。私はこの花を気に入ったのよ。こんなに美しい花は初めて見たから」
「……そう、ですか。毎年ここに咲いておりますよ。この花は」
「なあに?不思議そうな顔をして。ルイス、私あなたが咲かせてくれる花はみんな好きよ。だから、私が死ぬまでずっとあなたが庭師をして頂戴ね」
「勿論ですよ。さあ、お嬢様。お茶の時間でしょう?またオリヴァー様がお怒りになられてしまいますよ」
「ルイスがいるなら私も戻るわ。ねえ、ここで二人でお茶会しましょう?」
「またいつか。赦してもらえるならば、私はお嬢様の望むままに」
ルイスはデヴィズの形見であるキャスケットを目深に被りなおした。
(一年前に見かけた花なんて、忘れてるよな…普通)
しゃがみ続けていたせいか凝り固まった体をほぐすように伸びをし、ガーデニアの花弁をそっと撫でた。
「ねえルイス。私にも似合うかしら。この花のようなドレス」
「きっと似合うと思いますよ。お嬢様が婚約されるときには、世界で一番立派なブーケを用意させていただきますね」
庭園の入り口の方からロミを呼ぶ使用人の声が聞こえた。
「…またね、ルイス。約束、忘れないでね」
「お茶会、オリヴァー様が許してくださるといいですね」
何か言いたげなロミを突き返すようにルイスはまた花々のそばにしゃがみ込んだ。
遠ざかる足音が、ぎゅっとルイスの心臓を締めつけた。
***
スグリのジャムはオリヴァーの好物であった。ゆえに庭園の一角にあるガラス細工が施されたテーブルとチェアーのそばには低木と紅のコントラストが美しいスグリが植えられている。スグリのジャムを乗せたスコーンはロミも口にする機会が多かった。
相変わらず静寂が包み込む庭園にも小さくて紅く、透き通った宝石のような実が夏の始まりを告げた。
(今年は格段に紅い実が生った。摘み取るのは勿体無いが、きっといいジャムになるのだろうな)
ハドソン一家の食事を作っている使用人に実を持ってくるよう頼まれていたルイスは惜しみながら実の大半を摘み取った。屋敷に裏口から入り籠いっぱいのスグリの実を使用人に預け、オリヴァーに初夏の花が咲き始めたという旨の言伝を頼んで去っていった。
それから数日後、庭園でいつも通り仕事をこなすルイスのもとにスコーンとスグリジャムの入った瓶、紅茶を乗せたワゴンを押しながらロミが訪れた。
「ねえ、お茶にしましょう。ルイス」
屈託のない笑顔で、悪戯を楽しむ子供のような声でロミが言った。
「…オリヴァー様はご存知なのですか?」
「また堅いことを言うのね。いいわ、私にも考えがあるの。子供の頃、あなた、私のことをロミちゃんって呼んだことがあったでしょう?あの時のこと、お父様に言いつけちゃおうかしら」
「それは困ります…!あの時の私は父の見習いを始めたばかりでオリヴァー様にお嬢様がおられることも聞かされていなかったので…。ああもうわかりましたよ!お茶にしましょうお嬢様」
「ふふ、やっとルイスがルイスになってくれた。同じ年頃の者同士としてお話ししましょう」
ルイスは庭園の一角にある椅子をひきロミが座った後、自身もロミの正面の椅子に座った。
キャスケットは取って膝の上に乗せ、優しく光を反射するジャムを見つめた。
「…庭師としてではなく、ルイス・テイラーという一人の人間としての考えを聞いてくださりますか」
ロミをあえて視界から外し、震える唇を落ち着かせるように深く息を吸ってから言葉を紡いだ。
「僕は、仮に身分がどれだけ離れていても二人が愛し合っているのならそれでいいと思っていました。でも、花を育てているといやでもわかってしまうんです。花ひとつひとつに、適した温度が、適した土が、あるべき場所が決まっている。それは人間も同じで、吸う空気も、見える景色も、聞える音も、手の届く幸せの範囲も、全て決まっていて、決められた枠から外れると、花は枯れ、人間は不幸を知る。だから、愛し合える範囲を越えることはできない。ようやく気づいた、真理というやつです」
もうこれ以上話すことはないと言わんばかりにルイスは瞼を閉じた。
「私ね、知ってるのよ。ルイスは私よりも賢いから。私が話したいことなんてお見通しなのね」
ロミは慣れた手つきで銀の匙でスグリジャムを掬い取った。甘酸っぱい香りと食器を触る音だけが空間に取り残されていた。
ルイスはスグリの木に目をやり、幼い頃のロミと自身の幻影を見出していた。
二人が出会った時は、互いに身分の違いなど自覚しておらず、ルイスは天真爛漫なロミに、ロミは落ち着いているようで年相応の少年らしい振る舞いのルイスに純粋な恋慕の情を抱いていた。ロミが庭園へこっそり遊びに来るたびにルイスは鼓動を高鳴らせ、言葉を交わすたびにロミは頬を紅潮させた。逢瀬というには随分稚拙な庭園内の散歩も、二人の間に芽生えた感情を育むには充分すぎたのだ。
それを咎めたのは、デヴィズであった。身分という名を冠した越えられない壁を知るデヴィズは、ルイスがその事実に気づく前に二人を引き離し、不幸を知ることがないようにしようと試みた。その頃からルイスの母親が病気がちになりルイスが家事を担うようになったこともあり、二人が庭園で会う機会は無くなってしまった。
ルイスの瞳に映る幻影が懐古からきたものか、戻れない姿への憧憬からきたものなのか、その真偽は本人にもわからなかった。
昼下がりの独特の空気を破るようにロミが「あら、弦楽の時間だわ」とだけ告げ席を立った。それ以上の言葉は紡がれなかった。
ルイスは、ロミを引き止めることすらできない己をただ静かに呪った。
美しく咲いていたガーデニアが、春が去っていったことを告げるように枯れてしまっていたことに気づいたのは、ルイスが家に帰る途中のことであった。
***
この日から二人は会わなくなった。互いに避けようとしたわけではないが、ロミの教育が厳しくなった、庭園で最も多い夏の花の手入れで忙しいなど各々が胸の内に誰に言うこともない言い訳で埋め尽くしていた。
紡績機のようにただ与えられた仕事をこなし、独房のような部屋で薄い味のスープを啜るだけの日々。豊かでない環境下でも輝いて見えた花々への愛情も、ロミとの間に芽生え、見てみぬふりができないほどに膨らんだ愛情も、まるで嘘だったかのようにルイスの掌から零れ落ちた。ルイスは、自覚していた壁がより厚く、高くなるたびに心臓がすぅっと冷えていくような不快感に苛まれた。
「来週、ウィリアム家にロミを嫁がせることが正式に決まった。お前に挙式の飾り付け用の花を選んでもらいたい」
シャツが汗のせいで背中に張り付く、晴れた日の庭園。ルイスとロミの間に生まれた長い沈黙は突如破られた。
「あ、ああ。結婚ですか。おめでとうございます、おめでとうございます。お嬢様の幸せとハドソン家の更なる繁栄の祝福に相応しい花を選ばせていただきます」
ルイスは自身すら恐ろしくなるほど冷静に祝福の言葉を並べた。
書斎に戻る、と足早に去っていくオリヴァーの背中が見えなくなり、庭園に静寂が戻った。
「ああ、ああ、どうしてこんなにも辛いんだ」
虚空に放り投げられた悲痛な声と嗚咽だけがルイスに寄り添っていた。
煌びやかで花なんて霞んでしまうような屋敷内で、使用人は皆オリヴァーやロミに祝福の声をかけた。
装飾の施された窓枠に顔を近づけ、ロミは人影のない庭園を見つめた。
『結婚、憧れてるの。私。綺麗なお花に囲まれて、綺麗なドレスを着て、幸せな未来を誓い合うの』
『花は僕がとびっきりのものを用意しますね!』
『あら、そこは貴方が迎えにきてくれるんじゃあないの?シェイクスピアのように』
『そう、ですか。じゃあ…』
(この続き、なんだったかしら。胸の高揚感は覚えてるのだけれど…、思い出せない。きっとルイスもあの時のことなんて忘れてるわよね)
窓に映るかつての二人に“戻れない“という自覚がじわじわとロミの身を焦がした。
ジュエリーボックスの中に入っていた、とっくに枯れてしまったシロツメグサでできた指輪は、なぜ丁重に残していたのか思い出そうとしても思い出せないロミの手でもどかしさと少しばかりの絶望とともに投げ捨てられた。
「せっかくのおめでたい日になんて顔をしているんですか、ロミ様」
「イザベラ、貴方は私の結婚をどう思いますか」
「大変、喜ばしく思いますよ。私にとって、貴女は娘同然ですから」
「貴女が私を幼い頃から教育し、教養を授けてくれたことも、社交界に現を抜かす母の代わりになってくれたことも、全て貴女の優しさと愛であると私は知っています。答えて頂戴、イザベラ。貴女にとって、娘が愛の欠片も無い結婚をし、未来を投げ出すことは本当に喜ばしいことなの?」
「なんと、惨い質問をなさるのですか。それが、答えです」
その日の夜、ロミは浴室でぐったりとした状態で見つかった。
翌朝、いつも通り花の手入れをしていたルイスは、騒がしく人の出入りが激しい屋敷に不信感を抱いた。
「ルイス、話があります」
しゃがみ込んで花のそばに生えた雑草を間引くルイスにイザベラが声をかけた。
「イザベラさん?何かありましたか。屋敷の方が騒がしいですが」
「ロミが、自殺しました」
「……え?」
「幸い、早い段階で浴室に掃除をしに入ったメイドが発見したので命を取り留めています。ロミの机に置かれていた便箋にはただ『愛する人と、婚約がしたい』とありました。私はあの子を娘のように大切に想っています。だから、オリヴァー子爵に雇っている身ではなく、ロミお嬢様の幸せを願う身として言います。身分の違いに絶望していないのなら、諦めているだけならば、本当に大切なものを愛なさい。花は、咲くべき場所があるのでしょう」
「話が、飲み込めません。ロミお嬢様は今、」
「意識は回復しています。ですが、記憶が曖昧になっています。お医者様の話だと、強いショックを受けたせいだ、と。貴方には心当たりがあるのでしょう。そして、それが貴方にだけ解くことができるものだということも知っている」
「…僕にはわかりません、何が正しいのか。僕がどうすべきなのか」
「貴方にも立場があることはわかっています。…歩むべき道を、間違えないように」
ぽつり、ぽつりと咲き始めているパンジーが庭園で揺れていた。
「ああ。もしあの子がこの庭に来ても、決して驚かないように」
イザベラが悲しげに呟いたこの一言の意味がルイスにはわからなかった。
その数時間後、オリヴァーが婚約自体がなくなってしまったことをルイスに伝えた。
装飾に使う花の候補の覚え書きがある紙切れを、ルイスはぐしゃりとポケットの中で握り潰した。
***
冷たさが頰を刺す冬も、ルイスは庭園で花の手入れをする。ロミの一件もあってか平生以上の静けさが張り詰める庭園で、誰と話すでもなく、黙々と仕事をこなすルイスの姿は奇しくもデヴィズと似た凛々しさと哀愁があった。
「あなた、ルイスなの?」
慣れ親しんだ声だが、決してその声は弾んでおらず、恐怖心があることを感じさせた。
「ロミお嬢様。体調はもう大丈夫なのですか?」
「なんのことかしら。デヴィズさんは?」
「今日は、おりません」
(記憶が曖昧というのはこういうことなのか。少し、寂しいけれど、僕のことを覚えていてくれてよかった)
「お嬢様、何かお好きな花があれば申し付けください。飾りにして、持って行きますから」
「ありがとう、ルイス。お父様にもよろしく」
ロミの記憶は一部が欠け、過去と現在が混濁していたのだ。
雪のように白いヒヤシンスが咲き誇るある日もロミは庭園にやって来た。
「そこのお前、何をしているの」
ロミが冷たく言い放った。
「オリヴァー子爵に雇っていただいております、庭師のルイスと申します」
(この時が、ロミお嬢様の中から僕が消える時が、来てしまったのか)
ルイスはいつか来ることを覚悟していたその時が来てしまったことに痛みを感じた。
「ここの花は皆貴方が育てたの?素敵ね。不思議だわ。私はこの花たちを知っている気がするの。それに、胸の高鳴りにも覚えがあるわ」
ルイスは思うように声が出せず、絞り出すようにして言った。
「では、一から育てましょう。その高鳴りの、源となる感情を」
庭園の隅では、一度枯れてしまったガーデニアがまた花を咲かせる準備を始めていた。
もう何年も前の会話を、冬の寒さを言い訳にルイスは何度も噛み締めた。
『結婚、憧れてるの。私。綺麗なお花に囲まれて、綺麗なドレスを着て、幸せな未来を誓い合うの』
『花は僕がとびっきりのものを用意しますね!』
『あら、そこは貴方が迎えにきてくれるんじゃあないの?シェイクスピアのように』
『そう、ですか。じゃあ…じゃあ、もし大人になったとき、貴女に想い人がいなければこの薬指に指輪を嵌めさせてくださいね』
『ルイス、何をしているの?花を指に巻いて』
『エンゲージリング、ですよ。拙いですが、婚約のしるしです』
ニッと悪戯っぽく自身が笑ったことをルイスは昨日のことのように覚えている。
(きっともう、こんな会話もお嬢様の記憶からは消えているんだ)
後悔がルイスの喉を締め、慟哭を許さなかった。
長いようで冬は短い。ガス灯のおかげもあり街が静まり返ることはなく、屋敷も春を待ち侘びながら冬ならではの趣を逃さまいとパーティーや茶会が何度も開かれた。ルイスは寒さで根が凍らないように水やりは昼間に済ませ、養分を奪う雑草を間引き、重なり合った葉は支柱を使ってなるべく切らずに花を第一に考えて育て上げた。
季節は巡り、春が訪れる。ガーデニアは輝きを取り戻し、庭園内を彩る花は生き生きと今この瞬間を、過去にとらわれず、未来など気にせず堂々としている。
ルイスにとって日常であるその風景を、非日常に変える存在が今日も庭園にやってきた。
「その蒼い花は、なあに?」
ロミが幼子のように尋ねた。
ルイスはロミが指す花を摘み取り、ロミの左手の薬指に巻き付けて言った。
「勿忘草、ですよ」
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