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仕事を終え、一人暮らしのマンションに帰宅すると、僕は真っ先にスマホのLINEアプリを開く。
「ふっ」笑みが溢れた。
『蒼、今日もお疲れ様です』
トーク画面に彼女のメッセージ。僕は指を忙しく動かした。
『瀬奈こそ、お疲れ様でした』
すぐに返信。
『今、帰ったの?』
『うん、瀬奈は?』
『トークの時間を見て、一時間前に帰ってるよ。残業だった?』
『違う。スーパーに寄ってたから遅くなった』
『今日の夕食はなあに?』
『ちゃんこ鍋。瀬奈は?』
『鍋かぁ〜、寒くなってきたから良いよね。セーナはサバの味噌煮とホウレン草のゴマ和え』
『ヘルシーっぽいね』
『美容と健康に気をつけてますから』
(健康……か)
睫毛を伏せると背後から声がした。
「おい、鍋もうすぐ煮えっぞ」
「あっ、悪い」
僕は車椅子を回転させる。
「全部やらせてごめん」
「いいよ。今日は俺から誘ったから」
ダイニングテーブルで向かい合い、ガスコンロの上、ぐつぐつと煮える鍋に箸を伸ばす。
箸で捕まえたのは春菊だ。僕は聞いた。
「なに入ってるっけ?」
「適当に買ったから知らねー」
「肉は?」
「あんだろ?下の方に」
「ほれ」と僕の器に肉を放るこいつは、高校時代からの友人。赤坂誠、同じ年の二十五歳。彼と僕は野球部で汗を流し土にまみれ、甲子園という夢を目標に友情を育ててきた。
あの日までは……。
肉を咀嚼しながら誠が僕に上目遣いを向ける。
「なんだ?ボ〜ッとして。彼女と喧嘩でもした?」
「違う!瀬奈は彼女じゃないよ」
僕は慌てて顔を下げた。頬に熱を帯びてくるのが分かったからだ。
「まだ顔も知らないし」
「は?知り合って半年だろ?まだ顔見せしてないんか?」
「うん」
「なんで?」
「だって自信ないし、向こうから何も言ってこないし」
「ははっ、お前は大丈夫、イケメンとは言わないが普通だから。瀬奈ちゃんだっけ?ブスだったりして」
「顔なんて関係ない!」
僕は彼を睨んだ。
「ってか、瀬奈を侮辱すんなよ」
「あー、マジで怒ってる顔。久々に見た」
「べっ、別に怒ってないよ」
「いや、その顔は俺がレギュラーから外されて監督に抗議した時の顔だ。あん時のお前は凄かった」
ーーー
夕暮れの校庭。汗臭い部室が蘇る。
『監督、僕が選ばれて赤坂が外されるのは納得できません!』
『赤坂は明らかに不調だ。今回は外す』
『監督、僕達三年にとって、今年が最後の夏なんです!赤坂の代わりに僕が外れます!』
ーーー
誠は遠い目をして頬杖をついた。
「ムキになってさぁ〜。俺より泣いてくれたよな」
「そんな昔のこと、もう忘れた」
僕は車椅子を回転させ、冷蔵庫の扉を開ける。
「ビール冷えてるぞ。飲むか?」
「いいね〜」
ニヤリと笑む誠。
本当は嘘。あの夏のことは全て覚えてる。
運命が変わったのは翌日のこと。朝練に向かう途中の交差点。信号無視した暴走車。キキーッと鳴り響いたクラクション。瞬間、全てがスローモーションになった。
気がついた時、見えたのは白い天井。母は両手で顔を覆い、誠は白い壁を拳で殴っていたっけ。
『なんで、どうして俺じゃなくて蒼なんだよっ!!』
その後、医師から僕は告知を受けた。
『脊髄が損傷しています。残念ですが、下半身は……動かないでしょう』
あの時、ガラガラと積み上げた石ころが崩れる音がした。小学生から一つひとつ丁重に重ねて山にしてきた小石。
最初に浮かんだ二文字がある。【終了】だ。僕の野球人生は終わった。
夏の県大会、僕の代わりに赤坂がレギュラーに戻った。結果は決勝戦敗退。甲子園は夢のまま滲んで消えた。
缶ビールを揺らしながら誠が呟く。
「あれから七年か……」
そうだ。あの悪夢から七年が経過。誠も僕も大学を卒業し社会人になった。
誠は一旦サラリーマンになったが、野球を諦めることができずプロ野球チームの入団試験に挑み見事に合格。二軍選手としてスタートした。
僕は公務員試験をパスし、現在は市役所の生活保護課に勤務。それなりに充実した日々を送っている。
瀬奈とは誠が紹介してくれたマッチングアプリで知り合った。僕より二歳下の二十三歳。色んな女性とやり取りしたけど、瀬奈ほど会話が弾む女性はいなかった。毎日のLINEが楽しみでしょうがない。
彼女と僕は共通点が多い。まず、好きな曲が一緒、ソニアって女性シンガーの『シャーデンフロイ』って歌。シャーデンフロイの意味はドイツ語で【人の不幸を喜ぶ】って意味らしい。歌詞には他人の転落を嘲笑う人間の汚さが表現されている。
僕はあの日から、表面は善人ぶっても、他人の失脚を望むようになった。特に自分がなれなかった夢の場所に立つヤツ。誠、あんなに近くにいたのに、君はどんどん遠くなってゆくね。僕は君が妬ましい。
この曲のサビには、こんなフレーズがある。
『人を妬む心は苦しい。受け入れて前に進む方が楽』
瀬奈は、このフレーズを聴くたび考えさせられると言ってた。それは僕も同じ。でも、醜い心を隠して生きている自分には、もう慣れた。慣れさせられた、と言うべきか。
彼女の好きな食べ物は寿司。嫌いな食べ物は玉葱や長ネギ。僕とピッタリ同じで笑ってしまった。
「じゃあな」
誠が帰った後、僕はLINEを確認。
『今日もソニアの歌を聴いてる』
僕はメッセージを返す。
『僕も今から聴く』
眠るまで楽しい時間は続く。ずっとこのまま……何も変わらずに続いて欲しい。
今夜も、そう願う僕がいる。
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