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ところが変化は翌日起きた。瀬奈が『会いたい』と言ってきたのだ。
僕は焦ってスマホをソファーに投げた。
僕だって瀬奈に会いたい。でも、こんな僕を見たら……。更にLINE通知が鳴る。手を伸ばし確認。
『会ったら、ボーリングしたい』
僕は今までの瀬奈との会話を振り返った。
『セーナはスポーツが大好き』
『僕は野球やってたよ』
『うわっ!凄い!セーナはテニスやってるよ。今も野球してるの?』
『うん』
『足、速い?』
『速いよ。僕は身長百六十七センチ、小柄な一番バッターだから。盗塁だってチームで一番多くする。瀬奈は野球知ってる?』
『パパが好きだから知ってるよ。全速で走るの気持ちいいよね』
『うん、最高!』
嘘じゃない。正確には、だった、って過去形になるだけ。僕は事故にあわず、野球少年のまま大人になった自分を演じた。
「会えるわけがない……」
でも、瀬奈と切れるのは絶対に嫌だ!
前髪をクシャッと掴み悩むこと数時間、僕は誠に連絡した。休日だった彼はマンションまでやってきてこう叫んだ。
「冗談だろ?」
「冗談じゃない」
僕は車椅子を回転させる。
「お願いだ。僕の代わりに瀬奈に会って欲しい」
瀬奈を引き止めるための手段はこれしかない。僕は誠に説明。彼は沈黙で聞いた後「分かった」と頷いた。
約束の日は秋晴れの暖かい日だった。ベランダから空を仰ぎ、瀬奈を想う。夜に帰宅した誠は「会ってきたぞ」と言った後、床にあぐらをかいて座った。
「瀬奈はどんな娘だった?」
「ほれ」と言って自分のスマホを翳す誠。
「ツーショット撮った」
そこには全開で笑う誠と、栗色のボブカット、大きな瞳で、はにかむように微笑む瀬奈がいた。
「可愛いかったぞ」
ボソッと誠が呟く。
「映画観て、ボーリングして、飯食った」
「飯は寿司?」
「違う。パスタが好きって言うからイタリアレストランにした」
パスタ?そうか、瀬奈はパスタも好きなんだ。映画はカンフーを観たそうだ。ボーリングもかなり上手らしい。
『今日は有り難う。楽しかった』と瀬奈からLINE。
『僕も楽しかった』と返信すると『来週はテニスね』と返ってきた。
隣で画面を覗く誠に目をやると、彼は小声でこう言った。
「悪い。来週も会う約束しちまった」
それから瀬奈と誠は頻繁に会うようになりLINEも親密になってゆく。
『来週は遊園地だね。楽しみ』
瀬奈のメッセージを見つめ、僕の心はどす黒い感情、シャーデンフロイに染めらてゆく。
今、僕が正体を明かせば二人は終わるだろうか?
ある日、僕は誠を呼びだし尋ねた。
「瀬奈が好きなのか?」
誠は頬を赤らめ俯く。
「悪い」
「ハッキリ言え!」
「好きだ」
やっぱり。僕はソファーのクッションを掴み、誠に投げつけた。
「瀬奈は君なんか好きじゃない!だって毎日彼女と会話してるのは僕なんだから!」
「分かってる」
「お前なんか僕のニセモノだ!」
「確かにそうだ。でも、そう望んだのはお前だろ?」
「僕……僕は……」
瞳の奥が痛くて言葉が途切れ途切れになる。
「僕だって歩けたら……走れたら……」
苦しいよ!胸が張り裂けそうだ。僕は頭を抱え、一心不乱に髪を振り絶叫した。
「君は何も失ってないだろ?何でも持ってるだろ?なのに、なぜ僕から瀬奈を奪うんだああーっ!!」
誠は腰を折り、僕と目線を合わせる。
「悔しいか?」
「ぐっ!」
「瀬奈を横取りされて悔しいか?って聞いてんだ!答えろ!」
僕は唇を噛んで誠を睨んだ。悔しい、殺したい!こんな奴、消えれば良いのに!と思った。そんな僕の心を読んだのか、彼はニヤリと口角を上げる。
「だったら、来週、瀬奈に会えよ」
「はっ?」
「本物とニセモノ、お前と俺を瀬奈に選んで貰おうぜ」
「なっ、なに言って……」
「どうした?自信ねーのか?それは車椅子だからか?歩けねーからか?」
「お前!」
思わず手が伸び、誠の胸ぐらを掴む。と、同時に彼は僕の顎を掴み上げた。
「っざけんじゃねーぞ!事故って傷ついてんのはお前だけじゃねぇーんだよっ!」
「なっ!」
「ずっと思ってた!どうにかして俺の足とお前の足を取り替えてーってな。そうすれば、お前は野球できんだろ?堂々と恋愛できんだろ?幸せになれんだろ?」
「だけど、どんなに願ったって足は動かねぇ……」
顎を掴んだ手が落下する。誠の瞳が揺れて頬に涙が落ちた。
「なあ、頼むからその穴ぐらから出てきてくれよ。俺はニセモノ、車椅子のお前が本物だろ!」
「誠……」
その時、僕は知ったんだ。自分が真っ暗な穴ぐらにいることを。何も見えなかったけど、誠……お前はこんな近くにいたのか?ずっと隣にいてくれたのか?
この場所は寒い。明るい場所に進むには勇気を持たなきゃいけない。
「誠、背中を押してくれ」
絶望、否定、逃避、弱虫をぶっ壊すために。
僕が瀬奈と初めて会ったのは翌週のこと。僕は彼女に全てを打ち明けた。
「途中からね、何となく気づいてた」と瀬奈は微笑む。
「だって好きな曲も違うし、嫌いなはずの玉葱やネギもバクバク食べるんだもん」
「瀬奈、ごめん」
頭を下げる僕に瀬奈はしゃがんで顔を上げた。
「ねぇ、蒼君、私は本物かニセモノどっちか分かる?」
「蒼君?私?」
僕は顔を上げた。
「ちっ、違う。瀬奈は君なんてつけないし、私なんて言わないし自分のことをセーナって呼ぶはず」
「うん、正解。私は美里」
「えっ?」
後方に立つ誠の声が聞こえる。それは僕も同じだ。
「行こう、本物のいる場所へ」
美里さんはそう言うとヒールを鳴らし早速と歩き出す。
「ちっ、ちょっと待てって」
誠が車椅子を押した。
美里さんに連れて行かれたのは大学病院だった。エレベーターに乗ると5の数字を赤い爪が押す。
ここでも思い出した。瀬奈は自分の爪が嫌いと言っていたっけ。
廊下を歩いている時、誠がコソッと囁いた。
「おい、なんか妙なことになってきたぞ」
瀬奈は看護師なんだろうか?それとも……。
美里さんが立ち止まり、ナースステーション近くの白い扉をスライドした。
「瀬奈、お客さん連れてきたよ」
白い仕切りカーテン。どうやら個室。嫌な予感で心臓のバクバクが止まらない。
「行くぞ」
誠が車椅子を押す。僕は「自分で行く」と言い、車輪を回した。
カーテンを開く美里さん。ベッドの上にその人はいた。彼女は驚愕の表情を明らかに誠に向けていた。
「美里、なんで?」
「さあ、なぜでしょう」
美里さんは腕を組む。
「問題です。蒼君はどっちだ?」
「えっ、あっ」
彼女は混乱し瞳を泳がせている。誠が口を開いた。
「あの……俺」
「俺?」
瀬奈の視線が僕に下降する。
「蒼は俺なんて言わない。僕って言う」
「ふっ」
笑う美里さん。
「正解。とりあえずニセモノは退散します。本物同士で話して」
美里さんは誠の手を引き背中を押した。
「えっ、どういうことだ?」
「待合室で説明するから」
二人が去って扉が閉まる。僕と瀬奈は見つめ合った。
「「どういうこと?」」
二人同時に疑問符を投げ俯く。違う。今、彼女を前にして言うのはそんなことじゃない。
僕は全てを打ち明け「騙してごめん」と頭を下げた。
「セーナこそ、騙してごめんなさい」
彼女の細い声を、僕はツムジで受け止める。
「小さい頃から心臓が弱くて、ずっと入退院を繰り返してきたの」
「心臓?」
顔を上げた僕に映るのは、お下げの三つ編み、クマがプリントされたパジャマ、酷く細い両肩、青白く削げた頬。揺れる二重の瞳だった。
「本当はボーリングもテニスもしたことない。全力で走ったことすらない。でも、蒼の前では憧れてた自分でいたかった」
「言わなくていい!分かるから。僕も同じだから」
「蒼……」
「治療は?」
「えっ?」
「退院はいつなの?」
「分からない。今、バドって呼ばれる人工心臓で心臓移植を待ってる」
「心臓移植……」
「うん」
「本当は会うつもりなかった」と瀬奈は言った。
「こんなセーナみたら蒼が幻滅するって分かってたから。でも、どうしても会いたくて……。だから美里に」
「うん、僕も同じ。まさかお互いに友達を使ってるとは想像しなかったけど」
「でも、本物同士で会っちゃった」
「もっと近くにきて」と血管の浮き出た細い手を伸ばす瀬奈。この時、なぜ彼女が爪が嫌いと言うのか理由が分かった。
紫色。唇も同じ。知識は少しある。チアノーゼだ。僕は彼女に近づき手を握る。
「僕は、こんなだけど、君の許可を得たいんだ」
「何の許可?」
「休日をこの病室で過ごしたい。LINEだけじゃなくて君の顔を見て話したい。君をもっと知りたい」
「蒼……」
「僕じゃダメですか?」
彼女の瞳から涙が溢れる。
「でも、セーナは長く生きられ……」
「させない!」
僕は瀬奈を抱きしめた。ビックリするほど細くて儚い命。
「僕の心臓をあげる!」
「蒼……」
「足はダメだけど心臓は健康なんだ」
「なら、セーナは蒼に足をあげる。心臓はダメだけど足は健康だから」
「瀬奈……」
鼻の奥がズキンッと痛んだ。もう、前が見えないよ。彼女の嗚咽が聞こえ、病室が水没するぐらいの涙を流したと思う。
だけど、散々と泣いた後、僕と瀬奈は額を重ね合わせ「一緒にいよう」そう誓い合ったんだ。
後で聞いた話。待合室で美里さんは祈りながら泣いていたという。彼女は、学校に僅かしか登校できなかった瀬奈のたった一人の親友だった。僕の親友は……誠、お前だ。
それから僕は休日のたび、瀬奈の病室を訪れた。イヤホンを片耳に大好きな曲を聴き、色んな会話を弾ませる。喜怒哀楽、僕らは全てをさらけ出し、半分ずつ分け合った。瀬奈の両親とも顔馴染みになり自然と仲良くなった。母親は僕のことを「蒼ちゃん」と呼ぶ。
ある日、瀬奈がこう言った。
「セーナね、ずっと健康な人が羨ましかった。みんな幸せそうなのに、どうしてセーナだけ?って思った。正直、みんな不幸になればいいって憎んだこともあったの」
「うん、僕も同じだよ。ずっとね、他人には僕にはない自由に飛べる羽根がある。そう思ってた。だから堕ちてしまえばいいって」
「でも、そう願うセーナは苦しかったよ。悲しかった」
「僕もだよ。そんな自分が大嫌いだった」
カーテンの隙間から見えるのは柔らかく輝く三日月。
僕らはこの夜、本当の意味で『受け入れて進む』道を選んだんだ。
ーーー
三年後。
ハラハラと黄金色の葉が舞い踊る。銀杏並木で待ち合わせ。
「おせーな、美里のヤツ」
誠がイラついた顔で腕時計に目線を落とす。すると、向こうの方から「おーい」と走ってくる美里さんが見えた。
「お前、おせーんだわ!」
「ごめんごめん」
「ったく、毎回だろうが!」
来春、結婚予定の二人はプチ痴話喧嘩勃発中。僕はじっと黄金色に染まる道の向こう側を見つめた。
小さな黒い点が徐々に鮮明になりこちらに駆けてくる。僕は車輪に手をかけた。
「瀬奈、全速力はまだダメだよ!」
彼女は僕まで走ってくると肩で呼吸しながらニッコリ微笑んだ。
「大丈夫だよ。この心臓、強いから」
心臓移植から一年、でもまだ安心はできない。心配する僕をよそに瀬奈は車椅子を押して走り出す。彼女はすぐに走りたがる。まあ、僕も楽しいんだけどね。
今日は誠の一軍昇格のお祝い予定。
「お寿司、食べたいなぁ〜」と瀬奈が言うから僕は首を振った。
「心臓移植後は生物は禁止、分かってるだろ?」
「はーい」
四人で、どこに行こうか?と談笑しながら銀杏並木を歩く。結果、僕のマンションで鍋を囲み、どんちゃん騒ぎになった。
カチャカチャと食器がぶつかる音。瀬奈はキッチンで食器を洗っている。僕は床に転がり眠ってしまった誠と里見さんに毛布をかけた。
「ねぇ、蒼」
振り返ると、エプロンで手を拭いながら近づいてくる瀬奈が見える。
「心臓移植前にセーナが言った言葉、覚えてる?」
手術室に運ばれる前、彼女は僕の手を握りこう言った。
ーーー
『もし、まだ生きていいのなら、セーナには夢がある』
『夢?なに?』
『蒼の後ろをセーナの指定席にしたい。そして車椅子を押して全力で走るの』
『瀬奈……』
『そのために頑張る』
ーーー
でもね、瀬奈。
「覚えてない」と僕は嘘をつく。
「あはっ」瀬奈は笑った。
「嘘、下手だね。顔に覚えてるって書いてあるよ」
「瀬奈……僕は……」
「蒼の言いたいことは分かる。セーナは健康だから自分と違うって言いたいんでしょ?」
「僕にとって、一番大切なのは君の幸せだ」
「蒼は優しいね。でもセーナは違う。自分が大切だし自分が幸せになることばかり考えてるよ」
「瀬奈……」
「セーナはずっと蒼と一緒にいたい。それが自分にとって一番幸せだから」
「瀬奈……でも僕は」
「赤ちゃんなんか欲しくない!」
両目を見開く僕。そう、僕に行為は無理だ。
「二人で生きられればそれでいい!」と瀬奈は膝を落として僕を見上げる。
「だから、セーナに車椅子の後ろ、期限は一生の指定席を下さい」
「くっ!」
ダメだ。涙腺が崩壊してしまう。
「せっかく健康になれたのに……君はバカだ。大バカだ」
どうか今から言う僕の身勝手を許して欲しい。僕は彼女の肩を引き寄せ抱きしめた。
「結婚して下さい」
自分が幸せになる最高のワガママ。この言葉を伝えるために……。
◆
二年後
結婚して気づいたことがあるんだが、シャーデンフロイとは人と比べた自身の卑屈や優劣から生まれる感情だ。
つまり、問題は人ではなく自分に負けてる自身の中にある。
今、僕には卑屈や優劣はない。なぜかと言えば、この足をひっくるめ、全てが彼女に愛されているからだ。
そして僕も全てを愛してる。
人とは比較できない幸せは明るくて温かい。
だから君とは友達になれそうもないよ。
ごめんね。
『さよなら』
僕は暗闇に佇むシャーデンフロイに振り返らず手を振った。
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