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第十話
スズカさんが帰った後。
カナと私は、夕食の準備をした。
窓の外では相変わらずの霧雨が降り続いていた。
室内の明るい照明と対照的に、外の景色は徐々に暗さを増している。
水滴が窓ガラスを伝う様子は、まるで私の中にある不安が形を成したかのようだった。
「今日は何を作ろうか?」
キッチンに立ちながら、私は少し明るい声を出そうと努めた。
制服のまま料理をするのは少し気が引けたけれど、今の雰囲気を変えたくないという気持ちがあった。
「えへへ、お姉ちゃんったら。そうだね、冷蔵庫に野菜がたくさんあるから、野菜炒めとか作ってみる?あと、お味噌汁も作りたいな。」
カナは冷蔵庫を開けながら、いつものように明るく提案する。
お味噌汁の具材になりそうな豆腐やわかめ、野菜炒め用のキャベツ、人参、玉ねぎなどを取り出していく様子は手慣れたものだった。
「そうね。まずはお湯を沸かしましょう。それから野菜の下ごしらえね。私が野菜を切る係りで、カナはフライパン担当にする?」
料理は私の得意分野の一つで、包丁さばきには自信があった。
ただ、フライパンを振るのはカナの方が上手いので、いつもこんな感じで分担している。
まず私は鍋に水を入れてコンロにかける。
カナは白いエプロンを身につけながら、調理台の上を整理し始めた。
「お姉ちゃんもエプロン着けたほうがいいよ。制服が汚れちゃう。」
カナの気遣いに、私も素直に従う。
確かにスカートに油が跳ねたりしたら大変だ。
私も同じように白いエプロンを着けた。
私たちは並んで調理台に立ち、本格的な夕食の支度を始めた。
まず、玉ねぎの皮を丁寧に剥き、根を切り落とす。包丁を入れると、目の奥がツンとした。
「お姉ちゃん、玉ねぎ大丈夫?」
カナが横から覗き込んでくる。
その仕草は、妹らしい可愛らしさに満ちていた。
黒髪が揺れて、白いエプロンの端が静かに揺れる。
「大丈夫よ。こういう時は、ちょっと息を止めるの。」
慣れた手つきで、私は玉ねぎを食べやすい大きさに切っていく。
薄すぎず厚すぎず、炒めたときに程よく火が通る大きさを心がける。
横では、コンロにかけた鍋から湯気が立ち始めていた。
「お湯が沸いてきたね。わかめ入れちゃおうかな。」
カナが言いながら、乾燥わかめを目分量で分けていた。
私は玉ねぎを切り終えると、人参の皮を剥き始める。
「そうね。豆腐は最後に入れましょう。」
お味噌汁の手順を確認しあう私たち。
こういう何気ないやりとりが、姉妹らしいなと思う。
横目で見ると、カナはフライパンに油を引き始めていた。
キッチンには、油を温める音が響いている。
フライパンを軽く傾けながら、油を全体に行き渡らせる様子は手慣れたものだ。
「玉ねぎできたわ。」
「うん、じゃあ最初はそれから炒めるね。」
私が切った玉ねぎをフライパンに入れると、ジュウっという音が響いた。
カナはフライパンを軽く前後に動かしながら、玉ねぎをほぐすように炒めていく。
その手つきは本当に器用だ。
続いて、私はキャベツに取り掛かる。
包丁で芯を取り除き、葉を丁寧に重ねてから、食べやすい大きさに切っていく。
「そうそう、その感じでいいよ。お姉ちゃん、包丁さばきうまいよね。」
カナは玉ねぎを炒めながら、時々私の手元を見ている。
フライパンを片手で持ち上げ、もう片手で菜箸を使って玉ねぎをかき混ぜる。
透き通るような薄い黄金色に変わっていく玉ねぎが、甘い香りを放ち始めていた。
「人参も切り終わったわ。」
オレンジ色の人参を均一な大きさに切り、きれいに並べる。
包丁を扱う手には自然と力が入る。
野菜の形や大きさを揃えることは、私の中での小さなこだわりだった。
「はい、人参入れるよ。」
カナは手際よくフライパンを操る。
片手でフライパンを軽く揺らしながら、もう片方の手で菜箸を使って素早くかき混ぜていく。
オレンジ色の人参が、薄く色づいた玉ねぎの間を縫うように踊っている。
「キャベツは後からね。シャキシャキ感を残すの。」
カナの説明は的確で分かりやすい。
私は最後のキャベツを切り終えると、お味噌汁の準備に移る。
わかめはちょうど良い具合になっていた。
「お味噌汁にも、人参入れてみようか?」
私が提案すると、カナは嬉しそうに頷く。
人参の切れ端を薄く刻んで、沸騰した出汁に入れる。
キッチンには野菜を炒める音と共に、出汁の香りが広がっていく。
「そろそろキャベツも入れようかな。」
カナが言うのを聞いて、私は切り終えたキャベツを手渡す。
フライパンを大きく振って、野菜全体に火が通るように手際よく炒めていく。
キャベツの緑が鮮やかに浮かび上がる。
私もお味噌汁の仕上げに入る。
火を少し弱めて、豆腐を静かに入れる。
最後に味噌を溶き入れれば完成だ。
キッチンの照明が私たち姉妹を優しく照らしている。
窓の外は既に暗くなっていたけれど、この明るい光の中で料理をする時間が心地よかった。
「はい、できあがり。」
カナの声が弾む。
私も味噌汁を完成させて、お椀に注ぐ。
立ち上る湯気に、なんだか安心感を覚えた。
「お姉ちゃん、手伝うね。」
私がご飯茶碗を並べる間に、カナは野菜炒めを器に盛り付けていた。
「上手くできたかな?」
「うん、お姉ちゃんが切った野菜、今日もちょうどいい大きさだったよ。火の通りがすごく均一になるの。」
カナは、そう言って、優しく微笑んだ。
そこには、どこにもおかしな場所はなかった。
私は安心して、夕食の準備を進めた。
そして、テーブルには白いご飯と野菜炒め、そして味噌汁が並んだ。
シンプルな夕食だけれど、二人で作り上げた達成感に胸が温かくなる。
リビングのテーブルに向かい合って座る。
照明が、テーブルの上の食事を温かく照らした。
私は、この白い湯気が立ち上る料理を見ていると、なんだか幸せな気持ちになった。
「いただきます。」
私たちは同時に手を合わせる。
カナは箸を手に取り、野菜炒めをご飯の上に少しのせた。
私も味噌汁を一口すすってみる。出汁と味噌の香りが口の中に広がる。
「お味噌汁、美味しいね。人参入れたの正解だったよ。」
カナが嬉しそうに言う。
確かに、人参の甘みが出汁の風味をより引き立てている。
「野菜炒めも上手く出来たわね。キャベツ、シャキシャキしてるの。」
私の言葉に、カナは満足そうに微笑んだ。窓の外では霧雨が続いているのに、テーブルの上は温かな雰囲気に包まれている。
「ねえ、お姉ちゃん。私たち、いつも一緒にご飯食べてるよね。」
カナの声には、どこか懐かしむような響きがあった。
私は箸を持つ手を少し止めて、カナの方を見る。
「そうね。朝も、夜も。」
「ずっとずっと、そうだったよね…。」
カナの声が、少し遠くなったように聞こえた。
蛍光灯の光が、彼女の黒髪に不思議な輝きを与えているかのようだった。
「そういえば、さっきスズカさんが来てくれた時の紅茶、良い香りだったわね。」
私は何気なく言った。
普段、紅茶を飲む機会はあまりないけれど。
さきほど、スズカさんが来た時に出していた茶葉は上品な香りがして、印象に残っていた。
カナはそれをどこから出したのだろう?
少し気になった。
「あの時の、紅茶なのだけど…。」
私は、そこまで口に出して止まる。
固まった。
というのも、カナの持っている雰囲気が変化したように見えたからだ。
白いエプロンが、照明に照らされて妙に浮き上がって見える。
「お姉ちゃん…。」
カナのどこか虚ろな声。
私はじっと、カナを見るしかことしか出来ない。
これまであった、柔らかな雰囲気が、少しずつ変質しはじめている。
「カナ?どうしたの?」
私は少し不安になって声をかける。
カナの表情がぼんやりと霞ませているように見えた。
「お姉ちゃん、知って、知ってほしいの。」
突然、カナの声が変わった。
変わった気がした。
先ほどまでの明るい声とは全く違う、どこか悲しい、虚ろな…。
それは、まるで別の場所から聞こえてくるような、不思議な声だった。
「この世界は、違う、本当は違うの。」
カナの小さい声が、室内に反響しているかのように響く。
まるで、その声が部屋全体に共鳴しているかのようだ。
先ほどまで美味しそうに食事をしていた妹は、もはやそこにはいなかった。
照明の光が、今までとは違って見えた。
暖かだったはずの光が、急に冷たく感じる。
「カナ…?」
私は箸を置いて、妹をじっと見つめるほかにできない。
白いエプロンを着けたカナの姿が、照明に照らされて不自然なほどに艶やかな色合いで見える。
「嘘なの、すべて嘘なの。」
カナは呟くかのように、言葉を続けている。
たった今まで、一緒に料理を作っていた妹なのに。
もはや、目の前にいる存在は、妹とは異なるモノにしか見えない。
「カ、カナ…?」
私は目の前を否定するように声を出した。
けれども、変質は止まらない。
目の前にいる妹は、確かにカナなのに。
でも、どこか違う。まるで、カナの形を借りた何かが、そこにいるかのような。
「お姉ちゃん、私たちずっと一緒だったのに。ずっとずっと、一緒だったのに…。」
言葉を繰り返すカナ。
その一言一言を繰り返すことに、雰囲気が変化していく。
まるで霧雨が部屋の中にも降り始めたかのように、視界がぼやけていく。
「私たち、本当は…。」
その瞬間、私の中で何かが弾けた。
ここから逃げなきゃ!
恐怖と混乱。しかし、どこかここが現実ではないかのような、冷静さも出来つつあった。
細かな思考よりも先に、私の体が動き出す。
私は、とっさにリビングの椅子から立ち上がる。
座った椅子が動く。
椅子が床に擦れる音が、周囲に大きく響いた。
そのまま、私はリビングから飛び出し、廊下を駆け抜ける。
玄関に飛び込むように向かった。
「お姉ちゃん!」
背後から聞こえるカナの声。
それは、いつもの妹の声なのに、もはや別の存在のモノにしか聞こえない。
恐怖。
駆け込んだ玄関。
私はそこにあった靴へ、滑るように足を入れる。
そして、傘を掴む。
後ろからはカナが迫っている。
玄関のドアを開けた。
外は完全な夜。
霧雨。
「お姉ちゃん、待って!本当のことを…。」
カナの声が玄関に近づいてきた。
私は振り返ることなく、外へ飛び出した。
走った。
雨の中を無我夢中で。
しばらく、走ったあとに、私は我に返った。
耳を澄ます。
霧雨の降る音。
幸い、私以外の足音は聞こえない。
カナはついてきていないようだ。
周囲を確認する。
人はいない。
その代わりに、周囲の街灯や住宅地の家々から漏れ出ている光が周囲を明るく照らしていた。
霧雨は相変わらず降り続いていて、街灯の明かりが雨粒に反射して、不思議な光景を作り出していた。
冷たい雨。
慌てて傘を開く。
紺色の傘に、細かな雨粒が静かなリズムを刻み始めた。
私は、そこで改めて思考を始めた。
両親は仕事で遅い。
でも、今の私には両親のことを待つ余裕はない。
どうしよう。
その時、頭の中で、一人の人物の姿が浮かぶ。
スズカさん。
なぜだか分からないけれど。
今の私が頼れるのは、スズカさんしかいないような気がした。
制服のポケットに入れていたスマートフォンに手を伸ばす。
私は早足で歩きながら、スズカさんの番号を探した。
見つけた番号を押す。
呼び出し音が長く感じた。
「もしもし、ハルナ?」
受話器の向こうから聞こえるスズカさんの声に、私は思わずホッとした。
「あの、スズカさん…。カナが、カナが…。おかしいの。」
私の言葉は支離滅裂だった。
でも、スズカさんは静かに聞いている。
「落ち着いて。今、どこにいるの?」
スズカさんの声には、どこか強い意志が感じられた。
「家を出て、近くの…。えっと…。」
私はそこまで言葉を出してから、気がついた。
今、自分がいる場所について。
そう、幸いなことに。
ここは、スズカさんのマンションの近くだった。
「この近くにいるのね?分かったわ。そのまま、私のマンションの前まで来られる?」
「はい、行けます。」
「じゃあ、建物の前で待ってるわ。」
電話が切れる。
私は傘を強く握り直して、早足で歩みを進めた。
街灯が、夜と霧雨の中でぼんやりと光を放っている。
そして、その周囲に整然と並ぶ家々。
その窓から漏れ出てくる明かり。
それらが、この暗い夜にぽつぽつと浮かび上がっている。
私が適当な靴を履いて飛び出してきたせいで、足元は濡れて、寒い。
でも、今はそんなことを気にしている場合じゃない。
白いマンションが見えてきた。
そのマンションの前に、藍色の和傘を差した人がいる。
間違いないだろう。
スズカさんが私を待っていた。
私の心の中には安堵が押し寄せた。
「ハルナ。」
スズカさんが優しく声をかけてくれた。
私はスズカさんに抱き着くように、これまでにないくらいに近づいた。
「スズカさん…。私、カナが急に変なことを言い出して…。同じ言葉を何度も繰り返して…。」
感情的な私の言葉。
でも、スズカさんは笑ったりせずに、真剣に聞いていた。
「ハルナ。つまり、妹の様子がおかしいのね?」
「ええ、ええ。そうです。」
「たとえば?言葉がおかしい以外には?」
「えっと、なんというか…。雰囲気が変になって。私は、そのカナがどこか違うものにしか見えなくなって…。」
「なるほど。目の前にいる妹さんが別の存在のように見えるのね?」
「…はい。そんな感じです。」
そこまで話すと、スズカさんには何か思い当たる事でもあるのか。
じっと何か思い悩むような感じで、スズカさんは少し沈黙した。
なんだろう?
これってオカルトや怪談なのかな?
スズカさんと一緒にいて、どこか安心している今の私。
私は妙に客観的に、そんな変な考えをしてしまった。
「ハルナ。カナさんのところへ、もう一度行きましょう。」
いきなりスズカさんはそう言った。
「えっ?でも…。」
その言葉に、私は思わず後ずさりした。
カナの異様な姿が、私の脳裏に浮かぶ。
あの白いエプロンを着けた妹の様子が、まるで別人のように見えた瞬間。
「大丈夫。今度は私が一緒にいるわ。」
スズカさんの声には、どこか強い意志が感じられた。
そして、その言葉には、なぜか不思議な説得力があった。
「…分かりました。」
私は、スズカさんを信じるしかない。
「では、ハルナ?行きましょう。」
スズカさんの声に、私は小さく頷いた。
そして、私とスズカさんは並んで歩き出した。
スズカさんの藍色の和傘と、私の紺色の傘。
その二つの傘だけが、この霧雨の夜に確かな存在としてあるように見えた。
スズカさんは黙々と歩いていた。
藍色の和傘の先から、雨粒がしずくとなって落ちる様子が、どこか神秘的に映る。
そうして、歩いていると。
やがて私の家が見えてきた。
いつもと何も変わらない外観。
でも、何かが違う気がした。
窓から漏れる明かりが、やけに強く感じられた。
そこだけが現実だと言わんばかりの光の強さ。
玄関に近づく。
雨音が私たちの足音を包み込んでいく。
そして、玄関の前で、私たちは傘を閉じた。
和傘からこぼれ落ちる雨粒の音が、この静かで薄暗い夜で大きく聞こえる。
玄関の鍵を開けた。
カチリ、という音。
ドアを開けると、明るい光が私たちを出迎えた。
そして、リビングから漂ってくる、いつもの夕食の匂い。
野菜炒めの香ばしい香りと味噌汁の出汁の香り。
あまりにも日常的で、さっきまでの出来事が嘘のようだった。
「お姉ちゃん!」
リビングからカナの声が聞こえてきた。
私が戻ってきたことに気がついたようだ。
いつもと変わらない明るい声。
私は思わずスズカさんの方を見る。
スズカさんは静かに頷いた。
私たちは玄関で靴を脱ぎ、リビングへと向かう。
リビングのドアを開けると、そこにはカナが立っていた。
白いエプロンを着けた妹の姿。
先ほどあった異質な雰囲気はそこにはなかった。
しかし、カナとその周囲だけが、異様に鮮明に感じた。
「もう、心配したよ。突然いなくなるなんて。」
カナは、まるで何事もなかったかのように笑顔で言う。
けれども、それには強い違和感があった。
なによりも、家にいるスズカさんを見ても、いないかのように振舞っている。
私が何も返事をできない中で。
スズカさんが一歩前に出た。
「カナさん。」
スズカさんの声には、いつもの優雅さはなかった。
代わりに、強い意志のようなものを感じた。
「えっと、スズカさん。どうしたんですか?こんな夜遅くに…。」
カナの声が、少しずつ変化していく。
これまでの作られたかのような明るい調子が、徐々に薄れていく。
リビングのテーブルには、さっきまでの夕食が残されていた。
野菜炒めから立ち上る湯気が、蛍光灯の光を受けて、キラキラと輝いているかのようだった。
それはまさに、現実には存在しえないような…。
理想の食卓のようにも見えた。
「お姉ちゃん、知って、知ってほしいの。」
カナの雰囲気が変わっていく。
先ほどまでの明るい声とは全く違う、どこかへ呟くかのように虚ろな響き。
それは、まるで別の場所から聞こえてくるような、不思議な声だった。
照明の光が、今までとは違って見え始める。
「この世界は、違う、本当は違うの。」
どこか異質な調子でカナが語り掛けている。
スズカさんが、私の前に立った。
カナと私の間に、スズカさんがいる。
スズカさんの行動は、まるで私を守ることを最優先にしているかのようだった。
「嘘なの、すべて嘘嘘嘘嘘。」
カナの言動。
それはこれまでに見たことがないもの。
もはや、私には目の前のカナが、カナだと認識できない。
全てがよく分からなくなった。
「あの子は、世界の矛盾。」
スズカさんの静かな声が、霧雨の音に重なる。
「私は、あなたを守るために…。」
スズカさんはそう話しかける。
私に?
カナに?
それは分からなかった。
「お姉ちゃん、知って、知ってほしいの。この世界は、違う、本当は違うの。」
カナは不気味な同じ言葉を繰り返している。
「ハルナ、この家の二階へ行って!」
スズカさんの声が響いた。
反射的に私は、スズカさんの言われたとおりに、リビングから出た。
そのまま、階段を駆け上がる。
2階へと向かいながら、私の脳裏には、いつの日にか見た夢のことが蘇っていた。
あの暗闇の中での、不思議な浮遊感。
まるで、母胎に包まれているような安心感。
ああ、あれは幸せな記憶だったのかもしれない、と思った。
二階の廊下に着く。
そこで、私は立ち止まった。
「カナの部屋…。」
私は思わず、そう呟いていた。
二階にある妹の部屋。パステルカラーのプレートが掛かっているドア。
カナの部屋が、開いていた。
そこから部屋の中は全く見えない。
漆黒の闇だ。
一切の光が出てきてないかのような。
そんな闇が溢れ出しているかのように見えた。
二階の廊下。
薄暗い空間。
カナの部屋がドアを開けて、その空間がぽっかりと真っ暗な空間として、浮かび上がっている。
「お姉ちゃん。」
声だけが、その漆黒の空間の中から聞こえてきた。
カナの声。
でも、それは妹の声であって、妹の声ではないような。
階段を上ってくる足音が聞こえた。
私は、そちらを見る。
スズカさん、だった。
スズカさんが私の後についてきて、2階へと来ていた。
私はほっとした。
「ハルナ?」
私に近づきながら、スズカさんが話しかけてきた。
「あの子は、怪異。世界の矛盾なのよ。」
スズカさんの言葉が、廊下に静かに響く。
その声には、強い意志が感じられた。
その意味を理解できないまま、私は立ち尽くしていた。
スズカさんの手が、ゆっくりと差し伸べられる。
私は、その手を取った。
それは何かに包まれるような優しい感覚だった。
なんだか、ベッドの中で眠りに落ちる前のように。
私がとても強い睡魔に襲われた。
とても、私の意志では抗えない。
瞼を閉じる。
「お姉ちゃん、本当は私…。」
どこから聞こえる、カナの言葉。
けれど、意識が落ちる直前の私。
私には、もはやスズカさんの手の感触しかない。
優しいそれに従って、私の意識は遠のいていった。
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