あなたと見る空は、いつも霧雨

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第十一話  気がつくと、そこは漆黒の闇だった。  私の目の前には、何も見えない。  真っ暗な空間。  それは、まるで目を閉じているような、いや、目を開けているような…。  どちらなのか、私には判断がつかなかった。  自分が何を着ているのかも分からない。  制服だろうか?  私服だろうか?  そもそも、私は今、何かを着ているのだろうか?  いや、それどころか、自分の体がどんな状態なのかさえ、曖昧な感覚しかない。  けれども、不思議と、そのことに対する不安は感じなかった。  手を前に差し出してみる。  少なくとも、そういう動作をしているはずなのだけど。  目の前で動いているであろう自分の手は、まったく見えなかった。  でも、確かに手を動かしている感覚はある。  指を曲げたり伸ばしたりする感触。  それは、確かに私の意志で動いているはずなのに。  その感覚は、まるで胎内にいるような、安らかな気持ちにさせられた。  周囲には、生暖かい何かが満ちているような。  私の体を、ふわりと包み込んでくれているような。  どこか懐かしい感触だった。  耳を澄ますと、かすかな音が聞こえる。  規則正しい鼓動のような音。  まるで、母親の胎内で聞いた心音のように。  その音は、私の存在を確かめているかのように、ゆっくりと響いていた。  歩いているのだろうか?  浮いているのだろうか?  足を動かしているような感覚はあるのに、地面を踏んでいる実感がない。  まるで、深い海の中を漂うように、私の意識は漂っていた。  でも、溺れそうな不安は全くなかった。  むしろ、この空間にいることが、とても自然なことのように思えた。  まるで、私がもともとここにいたかのように。  ふと、遠くで何かが光ったような気がした。  瞬間的な閃光。  それは、眩いばかりの光。  真っ暗なところから、蛍光灯の光を浴びた直後のような。  いや、それ以上だ。  けれでも、その光は一瞬で消えてしまった。  もう一度見ようと目を凝らしても、そこにあるのは深い闇だけ。  そもそも、私は本当に目を開いているのだろうか?  目を閉じているのだろうか?  その区別すら、曖昧になっていく。  この空間には、時間の感覚もない。  どれくらいの時間が経ったのだろう?  一秒なのか、一分なのか。  あるいは、一時間以上経っているのかもしれない。  誰かの気配を感じる。  でも、それが誰なのかは分からない。  ただ、私の他に、ここには誰かがいるような…。  そんな予感めいた感覚が、心の中に広がっていく。  視界の端で、また光が揺らめいた。  今度は、先ほどとは違って、ずっと光が残っているようだ。  それにしても、その光は、どこか懐かしいような…。  まるで、誰かの面影のように。  それは、私の記憶の中にある、大切な何かを思い出させようとしているかのようだった。  私は、その光の正体を確かめようとして、手を伸ばす。  少なくとも、そのつもりでいた。  でも、この空間では距離感すら曖昧で、本当に近づいているのかどうかも分からない。  ただ、その光だけは確かにそこにあった。  漆黒の闇の中で、唯一の道標のように。  まるで、私を導くかのように、静かに輝いている。  私は、自分の体が浮遊しているような感覚を覚えながら、その光を見つめ続けた。  すると不思議なことに、光の形が少しずつ変化していくのが分かった。  まるで、誰かのシルエットのように。  でも、はっきりとは見えない。  耳に届いていた鼓動のような音が、少しずつ変化していく。  まるで、誰かの声のように聞こえ始めた。  けれど、それが何を言っているのかは分からない。  ただ、その声音には懐かしさがあった。  誰かが、私を呼んでいる。  そう感じた瞬間、私の意識がふわりと遠のいていく。  まるで、深い眠りに誘われるように。  目の前の光が、ゆっくりとぼやけていく。  それは、まるで霧雨に煙る街並みのように。  …ああ、そうだ。  私の住んでいた場所では、いつも霧雨が降っていた。  そんな記憶が、ふと蘇る。  でも、それはいつのことだったのだろう?  昨日のことなのか、遠い昔のことなのか。  そもそも、それは本当にあった記憶なのか。  この漆黒の闇の中では、そんな思考さえも曖昧になっていく。  誰かの気配を感じる。  その存在は、どこか特別な輝きを持っているような。  誰かの姿が、かすかに見えるような気がした。  長い黒髪が、闇の中でゆらめいている。 「…ルナ」  かすかな声が聞こえた気がした。  私の名前を呼ぶ声。  でも、それが誰の声なのかは分からない。  というより、思い出せない。  ただ、その声は、どこか懐かしさを感じさせるものだった。  まるで、遠い昔に聞いたことがあるような、そんな感覚。  でも、どこで聞いたのか、誰の声なのか、まるで思い出せない。  しかし、その長い黒髪の女性は、優雅な仕草で私に手を差し伸べているような気がした。  でも、その姿は霧のように揺らめいて、すぐに消えてしまう。  まるで、夢と現実の境界線のように。  確かなものなど、何一つない空間。  けれど、不思議と私は不安を感じなかった。  むしろ、この漆黒の闇の中にいることが、とても自然なことのように思えた。  まるで、母胎の中で安らかに眠る胎児のように。  意識が、少しずつ遠のいていく。  遠くで、また光が瞬く。  今度は、とても小さな光。  その時、私は強い睡魔に襲われた。  私の意識は、導かれるように深い眠りへと落ちていく。  だから私は、この不思議な体験は、きっと夢の中の出来事だと思うことにした。  …そう、きっとこれは全て夢なのだ。  そう思いながら、私はゆっくりと目を閉じた。  最後に見たのは、漆黒の闇の中で、かすかに輝く藍色の光。  それは、誰かの傘の色のように思えた。  でも、それが誰のものだったのか。  それを私が思い出すことはできない。  もはや、意識すら薄れつつあるなか、夢の中へと溶けていくように、すべてが曖昧になっていった…。
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